第11話 新たな日常
「いらっしゃいませ!」
元気の良い声が響く。大通りから少し離れているとはいえ、それが逆に隠れ家のような雰囲気を持つこの酒場は絶えず賑わっていた。
女将であるハンナの人柄や、その亭主の料理の腕もあり、人気は上々だった。
その酒場に、最近働き始めた女性が居る。貼り付けたような美しい笑みは、当初常連客には不評だったがそれは次第に変わっていった。
会話に興じる事もなく、硬い笑顔はそのままだが、妙に可愛らしい時がある。くるくると休む事無く動き続ける姿は真面目で、時折見せる綺麗とはとてもいえない、ぎこちない笑顔は妙に庇護欲を擽った。
最初は、毎日酒場に通いながらも、酒を飲まず料理ばかりを食べて帰る男。
いつ見ても手を抜くことを知らないかのように、何事も必死で覚えようとする翠の姿を、自然と目が追うようになった。
その次は、女将との会話を酒の肴に通う女。
丁度女将が席を離れていた時に、戸惑いながらも頑張って話を繋ぐ、その必死さに好感を覚えた。
そうやって、最初は困惑したように翠を見ていた者達が一人、一人と自然に彼女を受け入れ始めた……
朝はまだ暗いうちから起き出し、ハンナに連れられて朝市へと向かう。
肌寒さに身を竦めながらも、一つ一つ、その特徴を教えてくれるハンナとの仕入れは得難いものだった。
この毎日の仕入れを通して、翠は自然とこの国の料理や食材、物価を知る事ができた。
一抱えはある食材を、引いて来た荷台に積み歩き出すと、人当たりの良いハンナの知人から、次々と声が掛かる。
笑顔を作り、翠もそれに会釈を返しているうちに覚えられたのか、最近では彼女の名を呼んで挨拶をしてくれる人も出始めた。
───他人との接触には、未だ慣れない。けれど右も左もわからないこの世界で、一人で生きていける訳が無いのだ。
声を掛けられる度に戸惑う翠に、ほわほわと光珠が纏わりついてくる。最近はこちらも慣れたのか、何時の間にか翠の肩や頭の上でご機嫌に光っている事が多い。そうして、こうやって翠が困惑している時は、それを察したように大丈夫だよ、とばかりに翠の周囲をくるくる回るのだ。
朝食は、翠の担当だ。
長年一人暮らしを続けていたおかげで、手付きは悪くないのだが、如何せん、調味料がわからない。可愛いピンク色の粉を見たときなど、何だろうと思って舐めてみて、見た目には甘そうな色合いのそれが塩だったのには驚いた。
ハンナの亭主、ザックは武器屋が似合いそうな無骨な容姿とは裏腹に、作る料理は繊細な味付けだった。
手間を惜しまず作る料理は絶品で、未だに自分の料理を出す事に申し訳無さを感じてしまうが、料理の腕が上がったら厨房も手伝ってもらうと言われてしまえば、朝食作りにも熱が入ろうともいうものだ。
昼までに洗濯や掃除を終わらせ、ハンナの手料理を頂いた後は夜の仕込みの手伝いをする。
見慣れない材料を、指示されるままに下ごしらえしながら、ちょっとした料理のコツも教わって行く。
夜にようやく店が開くと、今度は翠は小さな店内をくるくると走り回る。そのすぐ後を光珠が追うのは他の人には見えていない。
ハンナが居ないときには、常連客の数人に声を掛けられては話し相手をさせられる。
物知らずな翠を面白がるように、皆次々と教え込んで行くのだ。
それらは、翠にとっては大切な糧となる。この世界のことをちょっとずつ知識として蓄えていけるのだから。
(本当は、判ってるんだよね……)
こうして、ハンナが手伝わせている一つ一つのことが、翠をこの国に馴染ませるための行為なのだと。それに気付いた時、またもや申し訳なく思ったが、好意に対して謝る事が望ましくないのだと、ハンナに叩き込まれてしまった。
好意には感謝を。謝罪ではなく笑顔を。
長い間こんな風に叱ってくれる人なんて居なかった。言われる言葉の一つ一つにはハンナの善意が透けて見え、時折、夜一人になると泣き出したい気持ちになる。
こんなに、得体のしれない自分を大切にしてくれているのに。
こんなに、面倒な顔一つせず、様々な事を教えてくれているのに。
それでもまだ、線を引こうとする自分がいる。それが情けなくてならない。
そんな気持ちを振り払うように、翠は何でもやった。一心不乱に働いていると、頭が真っ白になる。そうして日々を過ごし、少しずつこの生活にも馴染んできた頃……予想外の再会が待ち受けていた。