閑話 笑顔 Sideハンナ
「ああ……今夜は、月の神がたいそう綺麗じゃないか」
ハンナは軋む扉を開き、煌々と輝く月の光を受けながら、部屋に入ってきた亭主を振り返る。
「何だ、まだ寝てないのか」
「流石に今日は色々あったからねぇ」
突然飛び込んできた翠を思い返し、苦笑しながらハンナが返すと、亭主は元々の顰めっ面をさらに渋くする。
「お前が決めたことだ、否定する気は無いが……本当に良かったのか?あれで」
見目は悪く無いが、他人を拒否する雰囲気を持った翠は多くの問題を抱えていそうだった。
───見慣れぬ服、美しくはあるが、見慣れぬ容貌。硬い表情は緩む気配も無く、ようやく浮かべた笑顔さえ強張りきっていた。けれど……
「…今にも、泣き出しそうだったんだよ」
駆け込んで来たはずの翠が、ハンナを見上げた顔には焦りさえも浮かんではいなかった。けれど、よくよく見てみれば、堅く組まれたその指先は小刻みに震えていた───
それだけでも、このまま放り出す気になれなかったが……仕事を求めるその瞳からハンナは目が逸らせなかった。
表情とは裏腹の必死な口調、熱意溢れるそれよりも、翠の瞳は雄弁だった。まるで、手を離されないように必死な子供。
遠い昔、幼い我が子がはぐれた時を思い出した。置いて行かれまいと、必死に繋いだ手を握りしめていた小さな娘の顔は、今でも忘れられない。
そのせいか、生来の世話焼きの性が顔を覗かせた。あんな姿で仕事を必死に探している者が、とてもじゃないが普通の生活をしているようには思えず……つい鎌をかけてみると案の定だ。
ここで帰して、何かあっても寝覚めが悪いと住み込みを勧めてみれば、やけに遠慮する。
本当は使ってない客間を与えようとしていたのに、その姿を見ていたらつい、もう戻る事のない娘の部屋に住まわせるような事を言ってしまったのだ。
「……それに、あの子は得体が知れないけれど、悪い子じゃあないよ」
何と言っても、アンタの料理をあんなに大切そうに食べてくれたしね!そう豪快に笑うハンナの台詞に、亭主も翠がスープを飲んだ時の事を思い浮かべる。
一匙スープを口に含むと、まるで二度と食べられない高級料理を食べるかのように、一匙、また一匙と口に含む翠の姿は、意外なものだった。
荒れる事を知らないような指先。綺麗な形を保った爪。
それは、男からしてみれば、働く事を知らない手だった。こんな手で、先ほど口にしたように水仕事や汚れ仕事をするなど、期待出来そうにもなかった。
それなのに、手間暇かけているとはいえ、スープひとつであんな反応をする。
いったい、どんな生活をすればあんな風になるのだろう。あまりにも翠は不可解な人間だった。
ただ───もっと美味いものを食べさせてやりたいとは思ってしまった。
そこまで思い、男は結局自分も絆されていたのだと知る。
「……ちゃんと、笑顔を見てみたいもんだね」
上辺ばかりの笑みでもなく、最後に見た、泣き出してしまう寸前のような笑顔でもなく。
幸せそうな笑みを浮かべた姿を見てみたい。
「───そうだな」
頷いた亭主に、嬉しそうにハンナはその背を叩いた。