第10話 長い一日
ばたりと柔らかな寝台に寝転び、古びた天井をぼんやり眺める。途端にわらわらと光珠が翠を囲む。
≪スイ、大丈夫?大丈夫?……僕ら、何も出来なかった……≫
しょんぼりと瞬く光珠にそっと手を伸ばす。触れる感触は無くとも、慰撫するように何度も撫でる行為を繰り返す。
「そんなことはないよ、コウ。そうして心配してくれるだけで十分なんだよ?」
混乱していた思考では、光珠に身を隠してもらうことさえ思いつけなかっただけの翠だったが、頼らなかった事で光珠を傷つけてしまった事に反省する。
光珠が浮上するまでそうやって撫でていると、次第にその光が強くなり、ほわほわと薄紅を混ぜた色になってきた。それに安堵して翠も笑う。
(それにしても、疲れたなぁ……)
通勤途中で突然四方を闇に囲まれた瞬間の驚愕。そして……見知らぬ世界と、想像上の生物だった光珠や竜との出逢い。
さらには突然の婚姻と、竜の半身からの逃走。追い討ちをかけるように、職探しをしてたら暴漢に襲われかけ───ここに辿り着いた。
あまりにも長い一日を思い返し、翠は一気に疲れを感じた。手当てされた足は今も鈍く痛む───その足に巻かれた包帯を見て、翠は切なげに瞳を伏せる。
(ハンナさんには、返しきれないほどの恩があるな……)
空腹を訴えた翠の腹に爆笑すると、ハンナは暖かな食事を出してくれた。
「簡単なものしか無いけどね、味だけは天下一品だよ!」
そう言って出されたスープは温かく、緊張しきっていた翠の胃に染み渡り、身体の内側からじんわりと暖められるようだった。───他人の手料理を食べるのなんて、久し振りだ。潤みそうになる瞳を瞬くことで抑え、やさしい味のスープをさらに一口飲む。
人を拒絶するくせに、人の温かさを求める。そんな自分の勝手さに、翠は歪みそうになる唇を噛み締める。
「……そんなに噛むんじゃないよ、怪我するよ」
自己嫌悪に沈んでいた翠が、その言葉にハッとした様に顔を上げる。
「あたしの旦那の料理をそんな顔で食べるんじゃないよ、そんな顔しなくても、あんたの事情なんて聞きやしないよ」
その格好だけで、訳ありだって宣伝してるようなもんじゃないか。───そのハンナの言葉に翠はただ目を見開くことしか出来ない。
「そんな顔でスープ飲んで………。住む所も無いんじゃないかい?」
その問いかけに呆然た翠はぽろりと零す。
「……これから、どこか探そうかと……」
本当はハンナにどこか紹介してもらえば良いのだが、職を与えてくれ、こうして無一文の自分に暖かな料理を振舞ってくれた。
これ以上の迷惑を掛けるなど恐ろしくて出来ない。
ハンナに聞かれても、心配かけないような答えを返すつもりだったのに、まるで宿無しだと気付いているかの問いに驚き、思考を巡らせる余裕もなく、つい素直に返してしまった。
「なら、住み込みで働いてもらおうか」
「そこまでご迷惑はっ!!」
ガタリと椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、翠は必死に首を振る。
「何を勘違いしてるんだい、その代わり扱き使うからね!……食事も出すけど、給料から差っ引くから気にしないでいい。部屋は、あたしの娘が住んでた部屋がある。そこを使うといい。もちろんあんたが掃除するんだよ。───服も、部屋にあるのを使って構わない。どうせあたしの娘は結婚して子供産んだせいで体型が変わって、もう着られないんだから遠慮する必要もない」
「そん、なに、してもらっても、私には何もお返しできません……」
あまりにも都合が良すぎて、逆に心がずしりと重くなる。
本当に、返せるものなど何もないのだ。何一つ持たずこの世界に呼ばれた翠には、文字通りこの身一つしかないのだ。
「だ・か・ら、変わりに扱き使うって言ってるじゃないか。馬車馬の如く使ってやるから受け取っておきなスイ」
「でも……っ!!」
「こういう時は、有難うって言っておきゃいいんだ。ほら、部屋はこっちだよ、とっとと着いて来な。あたしゃこれから材料を買いに行かなきゃいけないんだから!」
「あ、有難うございます!あ……私、買い物のお手伝いします!!」
この問答はこれで終わりだとばかりに立ち上がるハンナの後を追いながら翠が叫ぶと、さらに呆れたような顔をされ、ぺしりと額を軽く叩かれた。
「そんな足で何言ってんだい!まったくこの子は……呆れて物が言えないよ。今日はとっとと風呂入って寝て、明日は早く起きてくる事!わかったね!」
反論する間など与えずまくしたてると、ハンナは翠に宛がった部屋へと彼女を押し込んだ。その勢いに呑まれた翠がそのままの姿で突っ立っていると、何怪我してるのに馬鹿みたいに立ってんだい!との叱責と共に、薬を持って戻ってきたハンナにまた、額を小突かれたのだった。
野宿の可能性さえ考えていたのに、こんな立派な部屋にいる自分が信じられない。
(でも、これで……ここでちゃんと、生きて行ける)
ふわふわとしていた足場が、少し地を踏みしめた気がする。気が早いものだが、今までと同じように働く場所を得たことで、どこか落ち着いたのだろう。
───この世界で生きて行く覚悟は光珠と出遭った時にしたけれど、この世界で生活する実感が沸いてきたのだ。
(バルドルにも、報告しなきゃね……)
あの時、ジークハルトに向かい合うことを躊躇う翠にバルドルは、とん、と扉を鼻先で突付いて押し開き、翠をそっと扉の前に下ろした。
≪───行くが良い。ジークハルトが来る前に≫
「……いいの?」
≪アレは我が半身だが、我にとっては其方の意思こそが勝る。……そんな顔をするでない。我は───すぐに、逢いに行く≫
自分が泣き出しそうな顔をしていた事には気付かず、翠は逢いに来るというそこに疑問を抱く。
「バルドルはここから出られるの?」
≪我が正気を失っていたからこそ、ジークハルトによりここに留められて居っただけの事。契約が成され正気に戻った以上、我を縛りつけておけるものでは無い≫
「そっか……でも、私何処へ行くかまだわからないよ?」
宛てなどないのだ。待ち合わせようにも、ここの地理さえも翠には判らない。
≪そやつらに使いを頼む。光珠とは我に近い存在だからな。それに───我には其方の居場所を感じる事が出来る≫
居場所が判るってどういうこと?と翠が首を傾げるが、すでに猶予はない。
≪今はその問いに答える刻を持たぬ。再び見えた時、其方に教えよう。だから今は───≫
疾く行け。近づくジークハルトの気配に、バルドルが翠の背をやんわりと押しやる。その鼻先に素早く口付け、翠は再会の約束と共にバルドルに背を向けた。
「わかった、待ってる」
きょとんと、厳つい顔のバルドルが目を見開き、遠くで巨大な尻尾がばったばったと揺れていた姿を思い出し、翠は楽しそうに口元を緩めながらそっと瞳を閉じた。その目蓋の裏に、もう一人の人物の顔が浮かび上がりかけるのに、気付かない振りをしながら───