第9話 逃れた先で
僅かに開いた隙間に身体を捩じ込み、外へ出ようとしていた人を押し込むように扉を潜る。
「……っと、なんだい、危ないじゃないか」
「ごめ……な、さ……っ」
押し退けられ、驚きを露にしている女性に、翠は整わない息で何とか謝罪をする。その間も駆け続けた身体は空気を欲し、肩を上下させ荒い呼吸を繰り返す。
「はいよ、これでも飲みな」
「あり……がと、ござ……ます」
手渡された器には、冷たい水がなみなみと満たされていた。零さないように気をつけながら、こくり、こくりと水を口に含む。
冷たい水が喉を滑り落ちてゆくのと連動するように、すう……と荒れていた心も落ち着いてゆく。周りを見渡す余裕も出来顔を上げると、微妙な表情をした恰幅の良い女性が少しばかり心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「……有難うございます。お怪我はありませんか?」
外へ出ようとしていた所を無理やり押し込めてしまったというのに、親切に水まで出してくれたのだ。申し訳なさに伏せてしまいそうになる瞳をしっかりと合わせ、深々と頭を下げる。
「あんたみたいな細い娘がぶつかったくらいでどうこうなる体はしてないよ」
からりと笑う、その笑顔が温かかった。そう思うのに、笑顔を返すことも出来ず、翠はもう一度軽く頭を下げるに留まる。
「ここは……?」
暗い室内にはいくつもの卓と椅子が並べられていた。黒い枠組みに朱に染められた天板を持つ卓に、同じ色味の椅子。中華風なのにその形は西洋風。町並みだけでなくこういった小物も同じ様式で作られているようだ。
整然と並べられているその数は一般的な量ではなく、何がしかの飲食を行う店舗なのだろうか。
「ああ、夜にちょっとした酒場をしてるんだよ。ハンナの酒場っていやあこの辺りじゃちょっとは有名さ」
ハンナのその言葉に、翠は瞳を輝かせる。じっとハンナを見詰めれば、その気迫を感じたのか、ハンナが驚いたように目を見張る。
「お願いです、こちらで働かせていただけませんか!掃除でも、皿洗いでも、配膳でも、皮剥きでも、出来ることなら何でもします!」
お願いします!と先程のように、深く深く頭を下げ、頼み込む。雇ってもらえるのならどこでも良かった。だけど……
「ご迷惑なのは、重々承知しています。……身元を保障してくれる者も居りません。ですが、こちらで働かせて頂きたいんです。迷惑しか掛けてないのに厚かましいお願いですが……っ!!」
最初に思っていたように、切々と情に訴えるという手段は頭から消え失せていた。ハンナの優しさもだが、その笑顔が……祖母、そっくりだったのだ。
大抵の事は笑い飛ばしてしまうような、豪快だった祖母。あけっぴろげなハンナのその笑みが懐かしくて、気付けばただひたすら懇願を繰り返す。
「お願い致します……」
最後にはとうとう声が震えてしまった。
ぽん、とそんな翠の頭に、温かな手が添えられる。
「本当に、何でもするんだね?」
「は……い…」
「夜だけじゃない、昼間も掃除や仕込みもある。夜も遅いが朝も早い」
「はい……」
「あたしゃ、人使いが荒いよ」
「はい…」
「返事はもっと元気に!」
「はい!」
「これから宜しくね。あたしはハンナ。あんたの名前は?」
「スイ……スイです、宜しくお願いします!」
何度も、何度も頭を下げる。最初に見たハンナの表情からも、自分を怪しく思っていたのは明らかなのに、受け入れてくれたことへの感謝の念をその行為に込める。
本当に、心の底から感謝しているのに、今も自分の顔には表情が浮かんでいないのは判っているからこそ、他の事で気持ちを伝える。
「ほら、そんなに頭ばっかり下げてないで!可愛い顔してるんだから笑ってごらんよ」
「……はい」
浮かべた笑みは、きっと滑稽なものだったろう。ぎこちない笑みと、作った笑みの混在したそれ。
距離を求める心と、懐かしい暖かさへの郷愁。鬩ぎ合った心をそのまま写し取った笑み。それが今の翠の精一杯だった。
「………今日はいいから、明日またおいで」
また微妙な顔をしながらも、ハンナはそう言ってくれて……安心した翠のお腹が、文句を言うように音を立てた。
「……………っ」
謎が多く、気になることもいろいろある翠だが、その瞬間の、年頃の女性らしい真っ赤に頬を染めた反応に、ハンナの顔が今度は豪快に笑み崩れた。