第8話 逃走劇
「ごめんなさいね、今人手は足りてるの」
パタン、と硬い音を立てて出てきたばかりの扉を見上げる。町へ出てきて気付いたが、どうやら自分は文字も読めるようだった。だがそれは完全なものではなかったが───自分の知っている言葉に自動的に翻訳されているようなものなのだろう。翠の知識にない語彙は、その部分だけがアルファベットを崩したような文字にしか見えないようだ。
そして、扉に貼られていたビラは求人広告。
はぁ……と小さく溜息を吐く。心配そうにそっと翠の頬に触れてくる光珠に大丈夫だよと笑いながら、翠は再び歩き出す。
見慣れぬ衣服のままあまり動きたくはなくて、大通りより一本離れた筋を選び、次々と扉を叩いていた。可能性をあげるためにまずは求人広告を下げている店舗。そのうち、この世界特有の知識を必要としないとなれば、過酷であろうが単純作業でなければならない。もう体力には自信があるとは言えない年齢だが、翠は職種は問わずその扉を叩いて行く。
………職探しだけで、どれだけ門前払いをされてしまっただろう。この上住める場所を求めなければならない事に、溜息も出る。
また一つ、新しい溜息を吐いて路地を曲がる。
「………っ!!」
右腕に走った痛みに眉を顰める。強く捕まれ引き上げられた腕の先には、厭らしい笑みを浮かべた男が一人立っていた。
「何だぁ?変な格好した女がここらをうろうろしてるって言うから見てみりゃあ……いい女じゃねぇか」
楽しげに下卑た笑いを浮かべながら、捕まえていた腕を引き寄せ、背後から身動きできないように捕らえようとしてくる。
反射的に踵を浮かべ、思い切り男の足を踏みつける。痛みに手が緩んだ隙に、身を捻り男の顎を下から突き上げる。躊躇する暇はなく、そのまま手を伸ばし男の耳を掴み引き寄せながら……膝で股間を思い切り蹴り上げた。
苦悶の叫びを背中で聞きながら、男が身を縮めている隙に全力で駆け出す。───背後で怒りに満ちた声が上がるが、足を止めてはお仕舞いだ。
(こんなところで役に立つなんて!!)
見事に翠の攻撃が入ったのはただの偶然に過ぎない。普段からお高く止まっているとか何とか理由をつけては絡んでくる人間が多かった。翠の無表情が歪む様が見たいのか、侮蔑の言葉を投げてくるだけならまだましだが……稀に、力を誇示しようとする者もいた。
普段から一人でいることが多い翠は、出来るだけ人通りの多い場所を歩くようにしていたから、大事になったことは無いが……もし助けのない場所でそれが行われたら。そんな懸念に本やネットで簡単な護身術を調べたりもした。
どこかに通い本格的に習うことは、他人と密に接する可能性を前に断念した。……結局翠に出来ることなど、少しでも己の硬い部分で急所を攻める程度のことしかできない。あとは───逃げること。
(………早く、しないと)
あの男の怒りに満ちた怒声はまだ耳に残っている。
あれほど怒り狂っていた男が報復を考えないはずはない。逃げ回っていても目立つこの姿を探すことは容易いだろう。
(どこか……どこかないの!?)
足を止めないまま、視線をあちこちに走らせる。土地勘のない翠には進むべき方向も判らない。光珠に頼むことさえ思い浮かばないまま、翠は路地を縦横無尽に走り抜ける。
「痛……っ!」
先ほど男の足を踏みつける時には役立ったヒールが、今度は翠の足を痛める。微かな段差に足を取られ、僅かに捻る。たいしたものではないが、このまま駆け続けるには苦しい。
足を鈍らせながら進む翠が不意に身を強張らせる。
(今の……っ!)
姿は見えないが、小さく聞こえたあの男の声に、すぐ傍まで迫ってきているのを悟る。恐怖に身が竦みそうな思いを耐え───
翠は目の前で開いた扉に駆け込んだ。