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Short Short  作者: 小林 陽太
9/31

和樹

三宮のセンター街を抜けてから、宝来和樹は同学部の高野との待ち合わせで、ある美術館にバスで向かっていた。国道2号線の界隈には、酒蔵や食品工場などが立ち並んでいて、その隣にその美術館はある。

和樹は高野との待ち合わせに遅れないよう、そのバスに揺られながら、車外の海辺の風景と腕時計に視点を往復させていた。つい先日まで付き合っていた由愛からのメールはまだ開けられることはなく、携帯のフォルダの中に眠ったままだった。

美術館前のバス停で降りると、街路樹が立ち並ぶ石畳の光景に、いぶし銀を連想させるような硬質な気持ちを覚えながら、煌々と照りつける真夏の太陽に再び汗を湿らせ降り立った。そしてクールビズに因んだ28℃の冷気に包まれる館内、その一角にあった木製のチェアーに腰を下ろすと、目の前には石で繋ぎ合された光沢のある彫刻がうねりを帯びて、壁一面を覆っていた。

高野は待ち合わせの時間からおよそ20分遅れてやってきた。紺色のTシャツに紺色のジーパンという実に理系なその無情緒なるファッションセンスに一瞬目を憚りそうになったが、特に気にしないように努めた。

今日はギュスターヴ・モローの展覧会が行われていて、和樹は高野と親睦を深めることを目的に誘ったのだが、彼の頭の中には美術という要素は一切なかった様で、作品を傍観しながら、時々科学の視点でそれについて語っていた。

「ちょっと休憩するわ。自販機ない?」

高野が休憩を申し出たのだが、彼は作品をまだ深く味わいたかったので、一人でモローの描く光と人物に見入っていた。モローの絵には鋭い光があった。雷光がキャンバスの中の人間を叩きつけるように、それは人間を天から支えているようにも感じ取れ、地はいつも暗闇に満ちていた。それは和樹にとって何を意味するのか、まだその時は理解出来うるものではなかった。

自販機のスペースに腰を掛けていた高野の元にやってくると、講義の話になった。

「和樹、この前の現代物理学Ⅱのレポートのことだけど、あれもう提出した?」

「あぁしたで。あの講義のあと、図書館籠っていろいろ調べたんや。」

「何調べた?」

「『ハイゼンベルグの谷』について。俺はさ、たっちゃんみたいに頭ん中が科学になっとらんで、芸術の視点から書かせてもらったわ。」

「…。」

会場の片隅に学芸員が座っていた。彼女の膝の上には赤いナプキンのようなものが掛けられていて、二人を見つめていた。

和樹は彼女と目が合うと、そのいかにも風刺の効いた学芸員らしい格好に、幾分かの興味を覚えて何かを感じ取った後、再び高野の方を向いた。

「…『ハイゼンベルグの谷』って何?」

「…あぁ。あれ、あれや。あのな、元素の周期表をな、ポテンシャルエナジーに沿って3次元表示すると、まるで山岳のような風景になるねん。」

「そうなのか、何て書いた?」

「うーん、あの谷にな、意味はないと思うんやけど、そこにさロマンティックな想いをぶつけてみて、科学じゃなくて思想として書かせてもらったんや。全然ケミストリーやない文章になったけどな。科学思想ってところか。」

「…よく、わからないわ。」

「…ふっ。」

高野の言葉は無機質だった。彼は手持ちのペプシコーラを飲み干すと、備え付けの群青色をしたゴミ箱にそれをスッと落す様にして捨てた。暗がりに居る二人を無機質な佇まいで照らす自動販売機が、まるで和樹との会話を傍観しながら聞いていたかのように思えた。

モローの絵にも、人間の闇を照らす光があった。彼が描きたかったものは人間なのではないかと和樹は思うようになっていた。高野は芸術に関心を持つ様な雰囲気は微塵にも感じられず、彼が気になっていたのは美術作品の保管方法や、劣化を防ぐための工夫などだった様で、美術館を出た後のバス停で彼はそれを熱心に語っていた。だが、和樹には彼の言っていることがどうも味気ない感じに思え、帰り路に科学と芸術の共通項を模索することに懸命になった。

下宿先のアパートに帰ってから、和樹は由愛からのメールに気付くと、冷やしておいたウォッカを飲みながら開いて読んだ。

---------

Subject:無題

宝来、もう嫌い!もう私の前に顔出さないで。じゃあ。

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メールを読んだ後、和樹は再びウォッカを口につけて、アルコールのせいかメールのせいか分からないが、妙な寒気が背筋を這った。

和樹の部屋の下に住む住人、それは中年の男女のようなのだが、今夜も喧嘩をしている。女の方は泣くようにして喚いて、一方で男の方が怒鳴っているといういつもの構図だった。

ウォッカを何杯か呑み続けていると、寒気が次第に熱気を帯びてきた。

次回提出する予定のレポート上に彼はウォッカを間違って少し溢してしまった後、ふいに玄関にフラフラと向かいスポーツサンダルを履いて、下の階の住人の所に向かう。錆びついた階下への金属製の階段を下りた後、その男女の住む部屋のドアの前まで来て、一旦ドアの前から垂直に離れられる所まで離れてから、走ってきて一発本気で蹴りを入れた。

「…さぁ、明後日提出のレポートやるか。」

和樹は今日の美術館で配布されたパンフレットから、一枚モローの絵選んでから切り取ると、銀色のタイルの貼ってある写真立てに飾った。彼の瞳には少しだけ涙が滲んでいた。

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