理枝
南青山を抜けてから夕方、渋谷に着いた。理枝は母の店に行かなければならない用事があったからである。
理枝の母親はそこにある貸しテナントで、国内のデザイナーの作品を販売するブティックの経営者であった。
その理枝の母は祥子というのだけども、若い頃はそれはそれは大変美人で数々の男たちを手玉に取り、猛烈なアプローチをされるような人だったのだが、実は恋愛には奥手でとても強い倫理観を持つ女性だった。
しかしその倫理観はある種の強迫観念の様相を帯びていて、包み込むような恋愛というよりも切り刻む様な恋愛をしてしまうという不都合さを常に抱えていた。
彼女はそのルックス柄、男性からは高嶺の花の様に思われていたのだが、付き合いを深めるほどにその毒々しいほどの美貌の裏にある情緒の不安定さがいつも露わになり、最後には捨てられてしまうような女だった。
理枝はそんな母と、ある男性との間に生まれた一人娘だったのだけども、生憎母親のような“無敵”なルックスには恵まれず、父親譲りの平均的な顔の作りだったが、男と別れる度に嘆いて狂乱する母みたいになることは一度も無かった。
理枝は母の店に着くと、裏の出入り口から三畳間ほどの事務所の部屋に入って鞄を置いた。ハルタの安いローファーを脱いでから、窓際にある緑色の古い冷蔵庫の中からお茶の入ったペットボトルを取り出してそのまま口をつけて飲んでいると、母の祥子がやってきた。
「…理枝!お行儀が悪いわね!!女の子なんだから、ちゃんとコップに入れなさいっ!」
理枝は母の登場に驚くことは無かった。これが母とのやり取りの日常だからだ。
「…普通、お帰りでしょ?…お客さんに聞こえるよ。」
理枝はペットボトルを段ボールの上に置くと、頼まれていた役所の書類を鞄から出して渡した。
「ほら、これで夕飯でも食べてきなさい。」
祥子は理枝に千円札を一枚渡した。理枝は慣れた顔をしてそれを受け取りまた事務所の外へ出た。
理枝は今一人暮らしをしている。理枝は高校三年生なのだけども、母と一緒には暮らさず、母の仕送りと自分のアルバイトで貯めたお金で一人暮らしをしている。
いや本当のことをいうならば、笹田というアルバイト先の男性と同棲しているのであった。
先日は母、祥子の仕事後に久しぶりに母の住む古いマンションに寄る機会があったのでお邪魔したのだけども、玄関を開けるや否や大量の段ボールが無造作に積まれていた。店に置ききれない在庫を一時自宅に保管するためだった。
玄関を入って直ぐ右側の部屋が寝室兼仏間であった。母は熱心な法華経信者なのである。法華経の中での女人往生を深く信じているようだった。
変なことを言うのもなんだが、母はその日の夜、理枝にこんなことを言っていた。
「毎晩、大きな大きな男がやってくるのよ。大きな大きな…大男よ。玄関の前まで来て、そして階段を下りてゆく。しばらくするとまた戻ってきて…。」
理枝は母に尋ねた。
「どんな人なの?マンションの人??」
しかし、祥子はそこで口を噤んだまま答えることはなかった。
そういえばある日、理枝と祥子は公園を散歩したことがあった。
「黙ってたけど、さっきあの木の影に男の人が居たわよね?」
「えっ?いないよ。いないいない。」
「居たわよ。私たちが話していたことずっと聞いていたのよ。」
理枝はこの時、母のことが初めて心配になった。
母はいつも情緒不安定だった。家の中で包丁を持って暴れたこともあった。でも決して理枝の前で泣き崩れる様なことは無かった。
先程母からもらって握りしめていた千円札はクシャクシャになっていて、野口英世の顔が泣いていた。そして理枝は笹田に電話した。
「あっ、たっちゃん?いまからご飯食べ行かない?」
「なんだよ、これから仕事だよ。」
「家居るの?私、今から帰るところだけど。」
「あー。あっそうそう、部屋掃除しとけよ。散らかってたぞ。」
「…。」
数秒の沈黙の後、理枝は電話越しに笹田に愚痴を述べた。
「…はー?あんた掃除しときなさいよ。」
…ブツっ。
すると、笹田は携帯を切ったようだった。その後、理枝は夜の渋谷に消えていった。
その日、彼女が家に帰ったのは午前3時だった。制服のポケットには母からもらった千円札の他に三つに折りたたまれた万札が数枚入っていた。
ローファを脱いてでから便所で吐いた後、お風呂で身体を洗った後に泥のようになってベッドの中で眠った。それは高校卒業を二カ月後に控えていた冬のことだった。