上木
「み、み、未佐子ちゃ~ん!」
上木史郎が車から降りてきた柴田未佐子に笑顔を振りまきながら呼んだ。隣の近松がそれを聞きながら笑っていた。上木と未佐子は幼馴染で、昔はよく遊んでいたのだが、未佐子は年々上木の馴れ馴れしさに疎ましさを覚えて、最近は益々疎遠になっていた。
「上木君。恥ずかしいからやめてくれる?」
「…。…未佐子ちゃ~ん!」
未佐子はまるであなたに言われたくないわよとでも言いたげな嫌そうな顔をしていた。近松は隣で今度は苦笑いし始めた。三人はこれから仕事の打ち合わせで、市役所にある観光課の研修室に向かうところだった。
近松が今回持ってきた事案は『市の文化振興における財源の確保2』というものだった。近松はきのこの梱包と流通を受け持つ地元の大きな会社の息子だった。上木は今はタクシーの運転手をしているが、市民活動団体である『発明クラブ』というサークルに入っていた。近松と上木はサークルの懇親会で知り合い今回の事案についての検討を始めることになった。
上木は未佐子の顔を見ながらにたにたと嬉しそうだった。
「未佐子ちゃん、今日は忙しい所来てくれてありがとう!」
「本当、忙しいったらありゃしないわ。で、具体的に何の用なのよ?」
未佐子に上木を邪見に扱っていると、近松が未佐子の顔を覗き込み、冷静に言葉を選びこう言った。
「実は、上木君が市の文化振興のために何かやりたいと言っているんです。それでアイデアは一杯あるんですけど、上木君のことだから全然現実味がないことばっかり言ってて埒が明かないんですよ。だからここはぜひ未佐子さんに何か具体的なアドバイスを戴きたいと思いましてね。」
「そういうことなんですね。…あ、遅れました。はじめまして、私、柴田未佐子と申します。観光課で観光事業に関する総務の仕事をしております。今の時期は、海開きをして間もないですから、地方や都市から来られる海水浴客の対応に追われている所ですね。あ、失礼ですが、あなたのお名前は?」
近松がスーツから銀色の名刺入れから自分の経歴を書いた名刺を取り出した。
「こちらこそ申し遅れました。近松門左衛門と申します。…いや、嘘です。近松健太郎と申します。近松農業は御存じですかね?」
未佐子が一瞬嫌そうな顔を見せた。
「…えぇ、存じております。67号線沿いにあるきのこの会社でしたよね?」
「そうです、そうです。それで私は近松農業の経営者なんです。それで会社運営の傍ら、市の文化委員会に所属している者なんですよ。上木君とはサークルの懇親会で知り合いまして、それで…」
「あっ、ここではなんですから、研修室に移動いたしましょうか?」
「…あ、そうですね。移動しましょうか。」
脇で上木はまつ毛の長い円らな瞳を何度も瞬きさせて、二人のやりとりを眺めていた。上木は近松と未佐子が話している脇で一人寂しそうに、まるで4、5歳の子供が口に指を咥えるかのようにしてそれを眺めていた。三人は通路の奥にある研修室へ移動した。未佐子は上木とは一切目を合わせなかったが、上木は未佐子のことばかり気にかけていた。
「では、例の事案なんですが、御目通し戴けますかね?」
「どうもありがとうございます。」
未佐子は赤いマニキュアを塗った形の整った手で受け取り読み始めた。3分ほどそれをよく読むと、まるで三角フラスコの中の液体が沸騰するかの如く顔を真っ赤にして怒りだした。
「…上木君!こんなの出来るわけないでしょ!」
近松が隣の上木を見ると彼は泣きそうな顔になっていた。
「未佐子ちゃん…ぼくは、どうしても、これをやりたいんだよ…。」
上木が母親に玩具をねだるかのような撫で声でそう呟いていた。
「ですよね…。上木君…、…馬鹿だからな。」
「ひどいよ~!近松君まで!!ぼくは真面目に言っているんだ!!ぼくは、ぼくは、ぼくの事案が通るまでこの席を離れないぞっ!!」
今度は上木が顔を真っ赤にして駄々を捏ね始めた。足をバタバタさせて、手は研修室の長机をバンバンと叩きだした。
「…上木!うるさーい!!」
未佐子もかんかんに沸騰して怒った。すると丁度市役所のチャイムが鳴った。
「あ、3時ですね。未佐子さんお時間大丈夫ですか?」
外は燦々と陽が輝き、窓際にある壁時計は丁度90度の屈折を示していた。三角フラスコの中の液中に、沸騰石を落とされた二人は大人しくなった。
「まだ、時間は大丈夫です。…それにしても、こんなに街中にオブジェを立ててどうするんですか?100メートル置きに国道の脇にオブジェを立てる?それも何なの、この変なオブジェは。」
「未佐子ちゃんは知っているはずだよ。僕が小学校の時にノートにいつも描いていたいろんな生き物だよ。」
「あんた、まだこんなことやってたのっ!?」
再びフラスコの中の液が突沸し始めた。
「うん…。あれから毎日毎日、ノートに描いていたんだよ。」
「上木君は、いつもタクシーの運転をしながら、この生き物を考えて暇さえあればメモ帳に描き込んでいたらしいんですよ。」
「…上木!ちゃんと仕事しろ!!」
フラスコの中から液が弾けて飛んだ。上木の生きがいは、毎日この変な生き物をノートに描き続けることだったらしい。その生き物たちは足が何本もあったり、昆虫みたいなものから宇宙人みたいなものまで沢山いるのだが、みんなそれはそれは幸せそうな顔をしているのだった。上木はこの生き物を描き続けて、もう20年が経っていた。
「未佐子さん、どうですかね。私の会社からも幾らか出資できますが、本人のデザイン料は無しとして見積もっても、街中に立てるとなるとこれは数十億円必要になりますが。」
未佐子は急に冷めた顔をしてこう言った。
「…上木君。こういうのは一人でやってね。」
そして上木は、近松と未佐子の前で号泣して土下座した。二人にはその土下座の意味が分からなかった。フラスコを温めていたアルコールランプは鎮火した。上木は浮かばれなかった。