水谷
水谷寿士は地元で名声のある県議会議員の一人である。水谷はある地方都市で水資源の有効活用を目的とした砂状ダムの建設を推進し、他事業を邁進する議員達と名を競い合う勇士の一人だった。
水谷はその絶大な権力によってダム事業を着実に成功させ、受注していた土建会社に多くの潤いを与えていたが、彼の指揮する事業には地元の土建会社との深い癒着があり、一部の関係者には種々の噂が立っていた。
八月のある日、水谷は本事務所の部下と共にライオンズクラブの懇親会に参加した。そこには旧知の仲であった佐々木が籍を置いており、その晩、二年振りにお酒の席で再会することになった。
「おぉ、佐々木じゃないか。今どうしてるんだ?」
「こんばんは水谷さん。最近は隠退気味ですが、細々と児童保育振興のチャリティーを継続しておりますよ。」
「そうか、元気そうで何よりだな!」
水谷は紺色のスーツを着て、青いカフスを留めていた佐々木に憧憬と共に懐疑的な想いを強く抱いていると、佐々木はいつもの癖を露わにしこう言った。
「…。…ははは、どうも。しかし中々腰が重い様で児童の元には参らないのですけども。」
水谷は昔から佐々木のその輪郭の乏しき佇まいを腹の底で侮蔑しながら恨めしい想いも抱いていた。
水谷には昔から多くの夢があった。自らの望む夢は全て成功させてきた熱い魂の持ち主なのである。自分の和魂を河の流れの様に移りゆく地域社会に見出し、経済的停滞などはものともせずに、地域の根幹から幾つもの華を紡いできたつもりだった。部下と共に河岸に咲き乱れ迷う黄の華々を摘み取りながら、自らの栄華を肥やしてきたのだった。
「水谷さん、熱燗二合にしますか?それとも一合にします?」
部下の重田が色とりどりの和の食材が並べられた長い木卓の下で、彼と“魂”の握手をした。水谷の心は確かな面持ちを取り戻し、手元の吸い物を二口、三口とすすった。
「私の文化振興の方はさっぱり進みませんでなぁ。水谷さんはいやはや流石。…それにしても遠山建設は今年も安泰ですな。ははは。」
「あらあら、お酒がちょいと進んでるみたいね。ほほほ…。」
水谷の斜め前に掛けている大槻が酔い微笑んでその様に言い、添い人が目配せをしながら大槻の握る益子焼の御猪口に並々と注ぎ足していた。
すると水谷は自分の嗜んでいた香ばしく立派に焼きあがった大ぶりのししゃもを大槻にお裾分けすることにし、手元の小皿のまま渡した。大槻は酔いに似せた紅潮の顔をして、そのししゃもを一回、二回と八重歯で噛みちぎる様にして頬張った。他の者共が談笑する橙の空気の中で、大槻の添い人が手元に置いていたポシェットから光沢のある絹のハンカチを取り出し、大槻の口元を隠れる様に二、三度拭っていた。すると、それを見ていた佐々木が大槻から水谷の部下の重田に目を移した。
「…重田さん、私にもししゃも頂けませんかね?お袋が私が郷へ帰ったときにはいつも焼いてくれるんですよ。港町ですから私は帰郷する度にそれを楽しみにしているんです。」
佐々木が重田に血の気の無い顔で幽寂として言った後、彼は屈辱を奪われた様な気がした。
「…いや。」
重田はそして水谷の顔を見た。水谷の墨色をした顔がみるみる灰色に、そして青色に、佐々木と同じ血の気の無い色に変わってゆく様子が見て取れた。佐々木は大槻の添い人の目前にあった、ししゃもの皿を引き寄せ、その佇まいで食べたのであった。重田はただ茫然とそれを眺め、水谷は脇で俯いた。
水谷はその会のあった深夜、部下と別れてからタクシーを拾い愛人を囲う市外の邸宅に寄った。
「おぃ、静子。なんだこの散らかし様は。」
「…あら、おかえりなさい。どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろう。いい加減、買った服は箪笥に片付けろ!」
すると、水谷は愛人の静子を居間で押し倒した後、顔に痣が出来るほど平手打ちを重ねた。静子はそれを拒否することも無く、泣くことも無く、ただ黙って彼のを受け取り、終いには肩を揺らす様に笑い出した。
水谷は酔いにぼやけた静子の美醜を見つめながら思いつめた。
--おまえはいつも俺の夢を踏みにじるのだ。俺の手で築き上げてきた城を、おまえは崩す様に、いや、おまえは俺の“夢の対象”を奪いに掛かるんだ。だからおまえを許さない。許せないぞ。おまえが憎い、おまえが憎い…。
水谷は佐々木を想いながら、目の前の静子の首を絞めた。そしてその後、静子に服を脱ぐように命令し、彼女はその濃い化粧の顔のまま服を一つ、二つと脱ぎ捨てる。彼はその肉厚な両手で彼女を再び地に、いや、血に堕とし押さえつけた。
時計は二時半を指そうとしていた。そして冷たい汗で濡れた布団の中で静子は不敵な笑みを見せながら、こう言った。
「ねぇ水谷さん聞いて。私の夢の対象はね、水谷さんなの。それはね“欲望の対象”なの。」
水谷はこの時初めて目の前の静子に言い知れぬ人外の慄きを覚えて、土曜日の明け方、寝室にある座卓に二階の金庫の鍵と彼女宛てに別れの言葉を書いた付箋を置いて、タクシーを拾い事務所に戻ろうと思ったが、ふと砂状ダムが頭に浮かんだ。
「おはようございます。どちらまで行かれますかね?」
「遠山のダムまで向かってくれないか?」
「あそこですか?一時間半ほど掛かりますけど、お客さん宜しいですかね?」
「…。あぁ、お願いするよ。」
「分かりました。」
タクシーの運転手は水谷よりも十ほど低い年齢に思えた。座席にはモノクロの写真と共に大竹という名前が表示されていた。大竹は鼻歌を歌いながら、国道を抜け、県道を軽やかに運転してゆく。その姿を後ろから見ていた水谷は、何故かその大竹に幾分かの関心を抱いた。そして、彼らしからぬことを突然尋ねた。
「大竹さんには夢はあるか?」
大竹は鼻歌を歌っていたが、口を噤んだままだった。水谷の言葉が聞こえていなかったのだろう。水谷は間を置いてから大竹に再び同じことを尋ねようと思ったが躊躇った。すると大竹がこう言った。
「…お客さん、何しにダムに行くんです?」
水谷はその言葉に激しい焦燥感を覚えて、鋒鋩とした魂の混沌が腹の底から溢れだしそうになったが、堪えたまま決して言うことはなかった。
「…私、あのダムの脇にある公園が好きなんですよ。嫁の親戚の甥っ子と何度か遊びに行ったことがありますね。」
水谷の困惑は的を外れた。大倉はラジオのチューニングを変えて、プロ野球の放送を流している。試合は丁度、九回裏だった。
小一時間ほどして、遠山建設の関わった砂状ダムの中腹に到着した。水谷は万札を二枚財布から抜き取り、お釣りはいらないと述べてバックシートに置いて、彼と別れた。すると彼が車から降りて来て、小走りに水谷を追いかけてきた。
「お客さん、待って下さい。お釣り!お釣り!返しますよ!!」
「…いいんだ。受け取ってくれ。」
「お客さん…。」
よく見ると、その大竹は誰かに似ていた。バックシートから見えたフロントミラーには大竹の目元しか見えなくてよく分からなかったが、背後から見えた大竹のその“輪郭の無い佇まい”は誰かに似ていた。
「…大竹さん、いい仕事してんなぁ。でも、釣りはいらないから。」
年季の入った紺色のスーツを着た大竹がこう言った。
「お客さん。代金は余分には頂戴致しません。私の夢は、あなたをお望みの場所まで安全に導いてあげることだけなんです。どうぞお返ししますから。恐れ入りますがお受け取りください。」
水谷は不意に何かに気付いた。それは、目の前の運転手が佐々木に見えてくるということだった。
すると、彼はお釣りの小銭を確かに受け取った後、何故か突然大竹の前で震える様に泣き叫び出した。幾千の戦を潜り抜けてきたその肉厚な手に受け取ったたった数百円小銭が、何かそれは何かとても有り難いものの様に思え、激しく慟哭したのだった。
「…。…あ、り、が、と、う。…あ、り、がとう。…ありがとう。」
水谷の中から幾多の“魂”が、天に昇ってゆく様に大竹には見えた。大竹は水谷に礼を述べて優しく微笑んだ。