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Short Short  作者: 小林 陽太
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奈緒

革製のボストンバックを抱えた健也は、午前十一時過ぎ、東京駅日本橋口で奈緒を待っていた。

奈緒は大学卒業後、名古屋にある出版社に勤務し、東京の文具メーカーに勤める健也と遠距離恋愛をしていた。二人は大学の美術サークルで知り合ってから、間を置くことなく自然に付き合うことになった。

二人の絆を繋いでいたのは何よりもその空気の様な親密さだった。初めて健也が彼女に会った時、彼は不思議な違和感を抱いた。これまでに一度も誰にも感じたことの無い印象を目に見えぬ媒体を通して与えられ、その瞬間は彼は自分を呑みこまれるのではないかと怯えたものだが、何故か無条件に彼女の前だけは自分の存在を許せたような気がした。

そして、彼女も彼によって自分の存在を確かめようとして、休日はよく彼を家に転がり込ませていた。

健也はサークルで自分の作品には青紫色を好んで使用していたが、彼女は赤紫色を好んでいた。

彼女の作品にはとても感覚的な表現が目立ち、その絵の中に映る人物にはいつも記号の様な意味が表れていることを彼は知っていた。

同じサークルの仲間と和気藹藹と時間を過ごしていたとしても、それは決してその仲間とは共有出来ない、二人だけの秘密の暗号だった。

午前十一時半、奈緒は健也の待つ改札にやってきた。

「おぉー、待った?」

「いんや、さっき来たばっかりだよ。」

彼女は微笑むことに慣れていないのか、少し怯えて悲しそうな顔と微笑む顔を重ねて魅せた。健也にはその彼女の微笑みが、彼女だけの微笑みが、まるで稀少な価値のある何かの宝石の原石そのものの様に思えた。

「バッグ持とうか?」

「あらぁ嬉しい。でも、いい。」

奈緒は決して表では彼に甘えようとはしなかった。それが彼女の気品だった。健也は黙って奈緒の手を握り、バックから手を放させた。

二人は青森行きの特急列車に乗った。特急列車の中で二人は前回会ってから今回会うまでの間に経験したことを話そうとしていた様に思えた。なのに二人は言葉を交わすことなく、ただ黙って列車の外の景色を見ながら座っていた。

青森に着いた時は、もう日が暮れていた。二人は駅から離れた所にある個人が経営するくたびれた雰囲気の老舗の洋食屋に入った。

「いらっしゃいませ。」

コックの姿をした女性が、二人を出迎えた。二人は店の奥にある喫煙席に腰を掛けた。

「煙草切れちゃったみたい。健也君持ってる?」

「あぁ、セッターだけどいいか?」

「うん。」

奈緒は手持ちのバッグから彫刻のあるジッポを取りだした。これは一年前に二人が名古屋の繁華街にある雑貨屋で買ったものだった。彼女は彼にどれがいいかを尋ね、彼がじっくりと店内のジッポに目を凝らしてようやく選んだものだった。彼女に最初に選んであげたものは彼女のお気に召さなかった様で、もう一つ、もう二つと彼は選んだのだが、結局最初に選んだものに落ち着いた。健也はいつも彼女と買い物に行く度にどれがいいかを尋ねられた。健也は彼女に似合うものをいつも選ぶことに疲れて、適当に自分を納得させたこともあった。しかし彼女はそれを見抜いていた様だった。

しばらくすると、二人の元に白身魚をメインディッシュとしたディナーが運び込まれた。先程のコックの女性が運んで来られたのだが、この店にはウェイターが居らず、コック二人で店を回している様であった。

健也はその健気な店の主達に感心をしていた。前の席に掛けている奈緒はそれを見て何かを感じている様だった。

「コーヒーはいつお持ちいたしましょうか?」

コックの女性が落ち着いた物腰で、健也ではなく奈緒にそう尋ねた。

奈緒はしっかりとした眼差しで、その女性に食後に持ってくる様に伝えた。

二人は時間を忘れて話し続けた。既に時計は二十一時を過ぎていた。

彼女の出版社での職場の話し、学生時代の同級生の話、プライベートでの話…健也はそれをただ聞いていて、時々声色を変えて答えていた。

健也がお手洗いのために席を立つと、奈緒は店の外を窓を通して眺めていた。窓の外には橙の街灯が立ち並び、曲線を描く前の春雨の様な、ゴッホの描いた浮世絵に写る時雨の様な、優しい白い雨が降っているのが目に映った。奈緒は煙草を吸いながら幾分か安らぎに満ちた幸せを覚えた。

彼がお手洗いから帰ってくると、コーヒーが二人分用意されていた。

「もうこんな時間か。結構長いこと居たんだね。」

「健也君、そろそろ出る?」

奈緒は健也を気遣った。彼は彼女に勘違いさせたと思い、コーヒーを嗜むことを勧めた。

二人の会話の熱が冷めた頃、丁度手元の花柄のカップに注がれたコーヒーも冷めかけていたので、健也は急ぐようにしてそれを飲み干し、二人は店を出てタクシーを拾った。

タクシーで到着し予約していた旅館は思ったよりも小さな旅館だった。入口には楓が紅葉し、根元には丸い地蔵の様な頭をした岩が幾つか非対称的に並べられていた。それは先程の洋食屋を出る時に二人の間に生じた風流に似ていた。

十畳の和室には内風呂も備えられていた。奈緒はそこで健也に恥じらいを覚えて後で入ると言った。

彼は奈緒に何か他愛の無いことを話しながら、近づいて手を取った。彼女はそこでこう言った。

「ジッポ、さっきのお店に忘れてきちゃったよ。」

健也はそれを聞いて思わず微笑んだ。奈緒もまるで何かをずっと堪えていたかのように美しく微笑んでくれた。

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