郷田
ここはどこだろうか?俺は笹林の山林を独り歩きながら街を目指していた。思案に窮していたが、日も暮れる前に街へ辿りつかなければならない。しかし西日は既に傾き、空は群青色に染まりかけていた。
しばらく山林を歩いていると、一軒の錆びたトタンで出来た小屋があった。俺はそこで明日までの辛抱、野宿することを心に決め、軒先のコンクリートに荷物を置く。荷物の中からペットボトルに入った水を取り出し、薄汚い汗に塗れた顔を手の甲で拭いながら口を付けていると、小屋の中から一人の男が出てきた。
「おぅ。なんや、おまえは」
俺はペットボトルを荷物の上に置いて、その顔をまじまじと見た。皺が鋭利な刃物で刻まれたような肉感のあるその顔には、深い悲哀が滲んで見えた気がした。
「あぁ、どうも。僕は行者です。山岳信仰の経験を身を持って積もうと思い、ちょっとこの山登ってみたんですが……、いやぁ、中々緑が深い山で、迷いましたよ」
男は慇懃な視線で俺を見つめ、小屋に招いた。
小屋の中には、様々なオブジェが飾られていた。山林で採れた木々で作ったと思われるもの、どこかの廃品を崩してきて作ったと思われるもの、そしてその中に幾つかの写真立てには、微笑み合う男達の姿があった。
「これはな、若い頃のな。大阪で大工しとったんや」
俺は何と答えていいか分からなかったが、随分目の前の男は老けたのだなとその時思った。
「ほら」
男は俺の右手にGeorgiaの缶を握らせる。
「飲まんか?あっちで話でもな」
小屋の奥には丸太を組んだダイニングテーブルのようなものがあった。俺は軒先に置いていた荷物を取りにゆき、再び男の元へ舞い戻る。小屋の外は暗夜の気配と共に、物の怪の饗宴が始まる微薫を漂わせていた。不思議な色をした満月が、壊れた煙突の隙間から覗いていた。
「どうもすみませんね、お構いなく。ただ今晩、小屋に一泊させてもらえないでしょうかね?軒先でも構いませんから」
男はじっと俺を見つめてから深く頷く。
「ええんか?」
「えっ!?いや、それはこっちの台詞ですよ。すみません、街へは今晩は帰れないでしょうから、どうか一泊させていただければと」
「……。好きにせえや」
俺は戸惑っていた。丸太のテーブルには小金虫が一匹、ひっくり返りもがいている。
「ワイは昔はな、棟梁やったんや。大阪の梅田にあるあの稲荷神社もあの写真の仲間たちとな……。まぁ、昔のことやで」
「そうでしたか」
辺りは静寂に満ち、目の前には蝋燭が二三本だけ、俺はこの男と二人で話していた。三時間くらい、女の話や学生時代の話などに興じていたが、しばらくすると男が俯いてこんなことを言い始めた。
「ワイはな、お前さんくらいの時、人を殺したことがあんねん」
背中に冷や汗が滲む。俺は再び、目の前の男を見た。その目は酷く淀んでいた。
「お前さんは、深い悲しみを抱えているな」
「……」
俺は何かを見抜かれたのか、それとも俺がこの男の悲哀を見抜いたのか、どちらが定かではない。
「なぁ?こんな俺と一晩泊まってええんか?おまえさんは」
俺は喉元まで何かが溢れだしそうな気持ちで一杯になる。十数秒の後、俺は目の前の男が写真の中で微笑んでいたのと同じように頬笑みこう言った。
「えぇ、宜しくおねがいします。今晩、一晩だけ泊めさせて下さい」
そして、男は泣きながらこう言った。
「……。……ほら、汗で濡れとるやろ?パンツ使ってないのあるから」
午後十一時、物の怪の饗宴は鎮まり、外は蟋蟀や鈴虫が愛しき誰かを想い囁くかのように鳴いていた。俺は泥のようになって、全てを忘れ、その日眠りに就いた。