有子
佐山有子は東京都文京区にあるヤマハの音楽教室でピアノの講師をしていた。音楽大学を卒業してから、ヤマハ音楽教室のスタッフになったのだが、新しく入ってきた新人の講師達に仕事を取られて、今は臨時講師として働いていた。
元々、大学でピアノ科を専攻していたのだけども、親の理想を押し付けられてなったピアニストよりも、アパレルデザイナーになることの方が夢だったので、単位はギリギリで取得し大学を卒業したのであった。手に職があるということで、ヤマハのピアノ教室に勤務することになったのだが、どうも自分には向いていないのではないのだろうかと近頃はハッキリと気付いてきた所だった。
賢治はそんな彼女のことをいつも応援していた。自分がピアニストに憧れていた夢を彼女が果たしてくれると期待したからである。だから賢治はそんな彼女に憧れと自分の夢を混同していた様だった。
「賢治君。私、ピアノ向いてないと思うのよ。」
「どうして?あんなに昔から頑張ってきたじゃないか。」
「賢治君は知らないのよ、私の高校時代しか。私は結局、親のエゴによってピアニストにさせられて本当の自分を見失ってきたまま生きてきたのよ。本当の私って何だろう。」
「…。僕には有子ちゃんがとても輝いて立派に見えるよ。僕はピアニストの有子ちゃんには今でも憧れているよ。」
「…。」
有子は彼にあなたは私のことなんか何も分かっていないという様な顔をしていた。
グラスに注がれたコーヒーが、照明の眩い光によって黒い塊の様な影だけをテーブルクロスの上に滲む様に映し出していた。有子はそこへ涙を溢した。
「私、時々自分が分からなくなるの。何故こんなにも辛い思いをしなければならないのかが…。私が何か悪いことでもしたの?私はいい子だったのよ。そう、いい子だったの。親の期待通りにずっと生きてきたわ。なのに私は一向に…」
「…一向に鳥籠から飛び立てない鳥みたいなんだね。僕は有子ちゃんがそんなに悩んでいるなんて思わなかったよ。いつもコンサートに行くと、有子ちゃんは僕には輝いて見えるんだ。僕はきっと鈍感なのかな。」
有子は首を横に振った。しかし有子は心の片隅で賢治がまるでアイドルを追っかけるオタクの様に、自分の気持ちではなく相手の気持ち、つまり私の気持ちに鈍感なのだと思いたかった。
「私は何かを間違っている様な気がするの。私は何を求めてきたのだろう。今では臨時講師よ。新人は皆元気で、私は教室では輝いていないの。いえ、新人も空元気なのかもしれないわね。でも、私はそんな空元気さえもう出せなくなったのよ。」
「…。うーんそうなんだね。新人も空元気かもしれないんだね。でもなぁ、僕は有子ちゃんのコンサート好きなんだけどなぁ…。」
有子は賢治と別れた後、文京区白山にある自宅へ戻った。部屋のベッドには苺のクッションが二つ転がっていた。有子には丁度今、彼氏も誰も居ない。だから余計に一人ぼっちの様な気がした。苺のクッションを一つ手に取ると、積り積った闇から抜け出す様に思いっきり壁に投げつけた。
ベッドに転がると、先程の賢治の力の抜けた様な甘い表情と言葉を思い出して反芻していた。
自分が幸せになることと他人が幸せになることは一致しないのかもしれない。私はピアニストとして生活をしていても何の楽しみもない。だけど、賢治君は私のピアノに喜んでくれている。いやでも賢治君はお世辞で言ってたのかもしれない。他に誰が私のピアノを喜んでくれるの?
有子は賢治以外の人物の言っていたこと、表情を振り返る様に確かめた。
あの人、私のピアノに喜んでくれてたわよね。そうだ、あの人も…あの人も…。高校の時の先生も。でも何故大学のあの先生は私のピアノが駄目だって言い続けたんだろう。私はもともとピアノが好きじゃなかった。あの先生に会ってから初めてそれを自覚したのよ。だから私は大学に行くのも好きじゃなかった。毎日、男と遊んでいたわ。あの頃は本当にどうにかしていた…。達哉君は今どうしているんだろう…。あの頃に戻りたい、あの頃に…。
有子はしばらくして達哉に電話をした。携帯電話で達哉の番号を探した。手はただただ震えていた。そして有子は達哉の声を待っていた。
「おぉ、有子。久しぶり、どうしたんだよ。」
「達哉…。いまいい?」
「あーいいよ。風呂は入る所だったけどね。」
「…。」
有子は泣いた。掻き毟る様な声で達哉に賢治に話した様に話し続けた。
「そうだったのかぁ…。なぁ有子。おまえ、もう少し大人になれよ。現実を見ろよ。おまえはピアノが出来るじゃないか。俺なんか未だにドレミファソラシドも弾けないぞ。有子は有名なクラッシックの曲も弾けるんだろ?それは凄いことだよ。それに高校時代、おまえは音楽の先生なんか比べ様にならないほど、素敵なメロディを奏でていたじゃないか。おまえのピアノには心が籠っているんだよ。」
「…達哉の嘘つき!私のピアノに心なんか籠っていない。私は何も考えず何も感じずただ無機質に弾いているだけよ。私は無になって私は私ではなくなって、ただ機械の様に弾いているだけよ!」
達哉が電話越しで戸惑っている様に思えた。しかし、達哉は数十秒の沈黙の後にこう言った。
「…。有子。おまえは気付いていないかもしれないが、今おまえが言ったことの中に全ての答えがある。いいか?よく聞けよ。…本物の職人ってのはな“私”があったら駄目なんだよ。“無私”になって出来るからこそ、いい作品が作れるんだ。おまえが無になってお前がピアノそのものになるから、おまえのコンサートは素晴らしいんだよ。おまえはだからピアノによって聴衆に夢を与えることが出来るんだ。多分だけどな、夢を与えている人間ってのは、一番現実的な意識に居る人間なんだと思うぞ。」
有子は少しだけ耳を疑った。あの遊び人の達哉がそんな話をするとは思いもよらなかったからだ。
彼には大学時代、下宿先に訪れては貪る様に身を預けさせた。有子はもう人じゃなくて物になりたかったのだ。彼女は物の様に彼に扱われることによって、自分の虚無を昇華させていた。あの瞬間だけ、無の自分が有になった様な気がしていた。
「達哉君…、今晩はもう寝るね。」
「あぁ、俺も風呂入るよ。泣いてんじゃねぇぞ、ばーか。」
有子は少しだけ、本当の自分というものを取り戻せた気がした。