神下
神下繁樹はとある大手企業に勤める一サラリーマンである。ここでは、神下の告白を述べることにしよう。
「神下さん、それであなたは会社でいつもどうなんですか?」
神下は答えた。
「えぇ、何かいつも自分の顔を食われているかのような気がするんです。同僚が寄ってたかって私の顔を食べようとするんです」
尋問官の山本が尋ねる。
「それで、顔を食べるというのはどういう感じなんですか?」
「えぇ。上手くは言えませんけどね。私の尊厳というか名誉といいますか、私を食って、そして食った私をを渡してくるんです。何て言ったらいいのかな、相手は相手自身の姿を露わにしないんだけども、私の顔を食べることによって、自分の姿を隠して、それで私にそれを渡してこようとするんです」
山本は俯いてから、答えた。
「つまり、あなたの人間性を褒めたたえるような動きを相手がするということですかね? それとも違いますか、何か被害者意識みたいなものがあるんでしょうか?」
神下は答え続ける。
「えぇ、何か“食われているような気がする”んです。私が食われて、それで食った私を出汁にして相手が返してくるようなそんな感じがするんです。それで、その場は収まるんですけど、私自身に何のメリットも無いんです」
山本は訝しげな顔をしてから、深く思考を育ませる。
「……。つまり、あなたは他者と、他者の生身と触れあえないと。建前でしかあなたは人と触れあえないという悩みを抱えているということですか?」
山本は苦渋の心持で答える。
「いえ、私は他者の本音と常に向き合っているのです。相手が腹の底で思っていることは全て分かるんです。まるで、X線で透かすかのように全てが見えるんです。でも、私はそれについてはあまり触れないようにしているんです。だから、相手は自分のことを分かってくれない、あるいは空気が読めないって思っているみたいなんです」
山本は目の前のカルテにそれを書きながら、興味深げにそれを記してゆく。
「それで、あなたはそういう相手が腹の底で思っていることを感じながら、何故それに触れないのですか?」
神下は答える。
「それは、人間関係は腹六分までと悟っているからです。私だって『てめー、このやろう!』って言いたくなる時だってありますよ。でも、それは決して表に出さずに、頭で処理しているようにしているんです」
「……。それは、あなたの心身の健康にとって害することではないですか? それでも何故あなたはそれを続けるのですか?」
神下は俯いてから、尋問官の顔を見て答える。
「それは、私がそういう“性質”に生まれついているからです。何でって聞かれても、私には分かりません。私は、それが“最善”だと思っているんです。私が、そこで仮にそのように言ったとすれば、何らかのトラブルやドラマが生まれるかもしれませんが、それを言わないで、なるべく心地良い、最善の対応をすることが大事だと思っているんです」
山本はそれをカルテにメモ書きしてゆく。額には汗が滲んでいた。
「それで、神下さん。あなたはそういう生活を続けていて、ストレスが溜まらないんですか?」
「えぇ、溜まりませんね。私には信仰がありますから」
山本は続ける。
「でも、あなたはそれを続けていて、何のメリットがあるのですか? あなたは自分の利得を満たすために、自分の主義主張というものを果たしてゆくことも大事なのではないですか?」
神下は迷うことなく述べる。
「えぇ、それはそうですね。自分の利得のために、主義主張を通すとなれば、私ほど厳しい人間はいないでしょう。しかし、私が主義主張を通さないわけは、人々を愛しているからです。人々の自然な姿、自然そのものを愛しているからです」
山本はそれに困惑する。
「それでは、あなたの主体性はどこに行ってしまうのですか? あなたという人格は、この世で霧散して空気のようになってしまうではありませんか?」
神下は続ける。
「えぇ、私は“神の下”に生きる人間ですから。私に主体性はありません。民主主義の時代には似つかわない人間なのかも知れませんがね」
山本は必死にメモを続ける。
「では、あなたは何を衆生にお望みなのですか? あなたは自分の主体というものをどのようにして、この現実に見出し、ぶつけるのですか?」
神下は大きな溜息を吐いてから述べる。
「私の主体を衆生にぶつけるのならば、それは天変地異になるでしょう。あるいは鳥獣戯画の宴が行われるでしょう。いえ、既にそのようになっているではありませんか。私が現実に私を見出すのは、自然のありのままの人間の姿、その営みを見聞きすることそのものにあります」
山本は息を呑む。
「つまり、あなたは自分が神だといいたいのですか? そんな傲慢なこと、人として認められませんよ」
神下はこう答える。
「私は神ではありません。私は神の詞を聴き、衆生に伝えるためだけに存在している人間です。私は神ではありません。私は神の代理人なのです。私が傲慢なのではありません。私は仕事をしているだけです」
山本はカルテにそれをメモ書きしてゆく。
「では、あなたは神に利用されている人間だと? 神の元で、使用されている人間だと?」
神下は答える。
「えぇ、そのとおりです。私は既に人間の、業生としての人生を生きることを拭い捨てた人間です。私は、現実を“体験する”側の人間ではなく、“俯瞰する”側の人間になってしまったのです。現実を最も実直に見つめる者、プロビデンスの目のような人間になってしまったのです」
山本は神下の顔を見ながら、苦渋の目を淀めかせる。
「ところで、プロビデンスの目とは何ですか?」
神下は続ける。
「それは、ご自身でお調べになってください」
山本はこの後、いろいろと質問を重ねたが、神下は一切答えることは無かった。この日の尋問はこれで終えた。神下は優雅な微笑みをただ浮かべて、席を立っていった。
『SUNTORY WHISKY 淡麗辛口』を呑みながら書いたものです。