邦弘
石津邦弘は地方国立大学の学生。友人の重田と一緒に自宅で秘密会議をしている所だった。机の上には無数のメモ書きが散乱し、蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返している。外には新聞配達のバイクの音が響き渡る。
「ねぇ、これどうしたらいい?」
重田は邦弘を見つめながら手を動かしつづける。
「あぁ、ぶち込んじまえ。(x,y)じゃ駄目だ」
邦弘は頭をかきながら悩んでいる。ユークリッド幾何学かリーマン幾何学で解釈するかという件だ。
「うーん……。ガウス平面で表して、平面上の座標を確率分布で取って表現するってのはどうかな?」
「あぁ。座標X(その「何か」)として、世界U(全て)の中で一点に落とすことは無理。確率分布でしか難しいんじゃねぇか」
邦弘は更に苦悶する。
「ってことは、一人の人間の肉体も確率1として表現できかねるってこと?」
「そもそも、個的肉体が確率1って誰が決めたんだ。おまえは確かに現実存在として俺の前に居る。一人の肉体を持った存在として、確かに俺の目に映っている。だけど、この目に映っているのは、おまえの肉体を構成している分子の集合体が、俺の目の細胞に刺激して、それが視神経を通って、俺の脳に認識されているわけだ、脳科学的にはってやつか? 肉体が確率1とか、肉体を一つ二つ…と数えること自体、間違ってんじゃねぇか。だけども……」
邦弘は重田の声を聞きながら、映像としてではなく言語としての、音声としての重田を確かに感じながら、また耳を傾けつづける。
「だけども、なに?」
重田は溜息を吐いて、邦弘の目を見つめた。そして、こう言う。
「その原子を集合させているのは、おまえそのものじゃないか? 肉体がおまえなんじゃない。おまえという「何か」が原子や分子を「何か」に収束させて、いや、もっと微細な領域では、素粒子を引き込んでいるんじゃねぇか」
邦弘は言った。
「僕が渦だってこと? うーん、重ちゃんが言ってることは、哲学だよ。科学じゃない」
重田は続ける。
「現代科学は再現性と定量化を重視するのは分かる。幾ら数学的に俺が言っていることを扱おうとしても、それは哲学だ。数学を利用した哲学だ。いわば現実に実現しない心の中のエンジニアリングだ」
窓の外では、道路を走る車の路面をタイヤが滑る音が、レザーバッグを金属製のボールでひっかくように聞こえている。
「いま、僕たちが扱おうとしていることは、現実の物質、物体の話じゃないよ。現代科学では原因ではなく結果として表現出来ないものには、信ぴょう性が感じられないと思う。あるいは、結果から推論するのが主流になっていると思う。だから、重ちゃんがやろうとしていることは、無理やり言うならば理論科学だよ。あるいは心理学、哲学だ。いや、妄言だね」
「妄言か。形になるまえのものってのは、全て妄言だよ。赤子が『あーうー』って言ってるのも、妄言じゃねぇか。でもよ、赤子は赤子なりにその「何か」を掴もうとしてんじゃねぇか? だからよ、さっきも言ったろ? 物質を結果とするならば、その結果が収束しているのがおまえなんだよ。それはおまえがこの現実で肉体を持って生きている限り明らかだ。おまえはお腹が空いたら、何か食べるだろう? また寂しくなったら、誰かに会いに行くだろう? おまえは出会ったものを食ってるんだよ。おまえが食うから、集まってくるんだ。そして、食わなきゃ人間ってのは生きていけないんだ。食べ物だけじゃない。誰かのおもいやりや、正義や、思想や、芸術や、何もかも、食わなきゃおまえがおまえで在れない」
重田が目を真っ赤にしながら、邦弘に続ける。時計は午前三時半を指そうとしていた。
「じゃぁ僕は一体何なんだ? ブラックホールか? じゃぁ僕は、今、重ちゃんを食っているのか?」
「あぁ、そういうことになるな。まぁ、俺とおまえはお互い様だ。だからよ、人間は、罪深いんだ。それが愛しければ愛しいほど、罪深いんだ」
「宗教的な罪業思想を聞いているんじゃない。僕はこれを完成させたいんだ」
重田が邦弘をやぶ睨みをしながら、薄らと笑う。
「おまえはどれだけ欲深いのだ。しかし、まぁいいだろう。俺はおまえの鏡だからな」
邦弘も彼を真剣に見つめる。
「うん。僕も君の鏡だからね」
すると、二人は一つになり、部屋の空気が急に静まり返ってそこには神妙な聖域が啓けた。見つめ合うものと、聞き合うものが合一融合し、笙の音色がどこからともなく聞こえてくる。邦弘は無になって、目の前のワープロのキーボードを叩き続ける音が部屋に響いていた。