理子
あの日あの時、あなたの家に呼ばれて、御化粧に使う自分のファウンデーションケースを、わざとあなたの大切なピアノ上に置いてきたの。そうすれば、皆があなたの家から帰った後、勿論私も帰ってから、あなたは必ず「忘れ物があったよ」と私に連絡してくるはずだから……。飯島も居ない。重田も居ない。誰も居なくなったあなたの部屋に、私は一人で訪ねることが出来る。それがその日か、あるいは数日後なのかは分からないけども。私はあなたとの約束にこぎ付けるために、それくらいの小細工はする。
――磯上理子は二十ニ歳のOL。土曜日は駅前にあるお店でヨガを習っていて、自分磨きは怠らない。今日はその帰りに哲也の誕生日パーティ。彼の家にて、近しい年齢の同僚だけでささやかな祝杯を交わしあった。室内にはクラッカーが突如として鳴り響き、重田の一メートル四方ほどの緑のリボンのプレゼントなど、哲也はそのパーティの演出にとても驚いていた。頬がふっくらと林檎のように紅くなるくらい少年のように喜んでいて、隣で重田が茶茶を入れながらシャンパンを注いでいた。剛腕に男物のブロンドの腕輪をしている飯島は、シャンパンを片手に下弦の月のような両目をして、終始大きく笑みを浮かべていた。
哲也の部屋には国内の大手メーカー、MLKというシリーズのアップライトピアノが置いてある。防音の壁に張り巡らされた彼の部屋は、夜になると特別な空間に変わる。それは胸をそっと撫で下すような音霊で、お気に入りのリストを華奢な両手で鳴り響かせるからだった。誰にも聴かれることのない、彼の幼き頃からの習慣はこのピアノだったのである。昼はCADによる設計の仕事をしているが、仕事を終えてからの彼にとってのリフレッシュ、束の間の休息はいつもピアノの前だった。ピアノを誰かに聴かせることはあまりない。ただ、ピアノを十代の頃に少しかじっただけという経歴だが、一年を通してピアノの前に座らない日はほぼ無かった。それは吃音という障害を抱えていた彼が、唯一音楽を「言葉」として、自分のためだけに純粋に表現するための場所だったからである。
「なぁ、哲也さん。ピアノ弾いてよ、聴きたいな」
飯島が酔い潰れる前に、その耳と目で聴きたがっていた重田が言った。理子が脇で神妙そうな面持ちをして、目の前にあるケーキの苺を頬張っている。窓の外はベランダで、観葉植物用の鉢に植えられていた蔦が夜風に揺れていた。
「えぇっと、そ、そ、それはね……。あ。あんまりー、人に聴かせたこと、無いんだ」
「いいじゃない。俺も聴きたい!」
重田がやぶ睨みをしながら哲也を見ている。「早く弾け」と急かすように、お酒のペースも上がる。理子が苺を食べ終えると、哲也の傍に肩を寄せて微笑みながらこう言った。
「まぁ、いいんじゃないの。でも、本当は全然弾けないとか……」
室内で笑いが湧きおこった。哲也は手元のフォークを皿の上に並べて置くと、少し歯痒そうな顔をして、重田のプレゼントに掛かっていた緑のリボンを頭に巻きつけた。
「哲也さん、どうしたのーっ!? あはははは」
と、飯島が言う。
「……よ、よ、よっぱらいに、き、き、聴かせる曲なんか、ないよ。……さぁ、今夜は飲もう飲もうね」
「うーんもぉ、分かったよ。酔っ払いはどっちだよ!……飲もうじゃないかぁ。飲もう飲もう、飲もう飲もう♪」
すると、理子がお手洗いを借りるために席を立った。そして、ピアノの上の片隅に、自分のファウンデーションケースを誰にも気付かれないようにそっと置く。
時計は午後十一時を指していた。哲也を含む四人はすっかり紅潮の眼差しで、数本のシャンパンのボトルを空けている。手元のテーブルには幾つかのクラッカーの残骸がころころと転がっていて、飯島は少し眠そうに、哲也の部屋にある赤いソファに背を傾けていた。理子は食器を丁寧に片付けながら、それらクラッカーをテーブル脇のゴミ袋に入れてゆく。
午前一時を回っていただろうか。三人が帰った後、すっかり静まり返った室内には、哲也だけがもぬけの殻のようになって、ソファにうずくまっていた。虚ろな視線の先の四角いガラスのテーブルの上には、シャンパンの入ったグラスが一つだけ残っている。ソファを降りた彼はそれを再び手に取ると、勢いに任せて口に注いだ。そして、F#(フィス)の音色が聴きたくて、座った状態で黒鍵をそっと人指し指で撫でるようにして、優しく下へ落とした。部屋に神妙な音が共鳴する。哲也はその残響に耳を傾けてから、今度は強く叩いた。それも何度も何度も、その共鳴、揺れを感じるために、何度も何度も叩いてみた。それは、彼の心の奥高い所まで突き抜けるように響く。怒りが混乱に変わり、混乱が悲しみに変わり、悲しみはやがて諦めのような歓びに変わってゆくのを確かめる。彼の心は緻密な内的空間に繋がっていたのであった。
しばらくしてから立ち上がると、ピアノの天板の上にファウンデーションケースが少し斜めを向いて置いてあるのに気付いた。
「これ、誰のだろう。……理子さんのか?」
哲也はすかさず気付く。彼女はわざと置いたのだと。彼は少し腹立たしい気持ちになった。自分の愛用するピアノの上に私物を置かれたことに、それも化粧道具などというものを置かれたことに対してである。しかし、これは彼女の自分への好意、あるいは罠の徴なのだと思い、まるで何か危険物を扱うかのように丁寧にそれをテーブルの上に置いて眺めた。
数分経っただろうか。彼はそのケースを不意に開いて中を見たくなり、ボタンを押して中を見ると二割ほど使用された形跡があった。とても几帳面に使用されていることに感心する。明日、彼女にメールをしようと酔いの中、心に決めた。
――彼は、そういう人なの。優しい人だから必ず連絡を返してくれるはず。
理子はそれを見抜いていたのだった。が、彼はそれを封筒に入れて、翌週の月曜日、彼女に手渡した。そこには、小さな手紙を入れて……。
その手紙に何と書いてあったのかは、理子しか知らないのである。