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Short Short  作者: 小林 陽太
24/31

詠美

 「世相を読むなんて、無理よ」

 藝術大学三回生の篠田詠美(しのだえいみ)は、同学部の今泉光輝に述べた。

 今日のクロッキーに使われる、コンテは無料配布。右手は黄粉臭い感じで茶色に滲んでいる。目の前には裸体の臨時アルバイトが、美紀を正面にモナリザスマイルで、頬の筋肉を時々痙攣させながら硬直し微笑んでいる。詠美の口が光輝を悩めかしくさせた。

 デッサンに使われる石膏が、室内の壁際を取り囲むように乱列している様子は、その諸々の人間を監視するかの如く圧迫させて、その白と影の陰影が、リアリスティックな肉体の造形美を掻き立てている。それでなくては石膏ではないのだが、二次元とは異なる、その生々しさは、視力の良い彼にとって逆に強烈な美醜への洞察を引き起こさせるのだった。そして、光輝が囁くようにこう言う。

 「時代が時代。億人の人口増加の時代じゃ、統一見解なんて持てないものかな」

 詠美は彼の脇で、コンテでケント紙に上下を続けながらゆったりと喋る。勿論、光輝の手は止まっている。

 「現代社会、私たちの生きているのは民主主義の時代よ。統一見解なんて持てやしないわ。周りの人の顔色を伺いながら、空気を読んで、その平均値を敏感に察知し続けるしかないのよ」

 光輝が紺色のコンテに手を伸ばしてから、また引っ込めた後に、鼻を擦りながら詠美の方を向いた。

 「民主主義は一人一人の人間の尊厳を勝ち取り、一人一人の人間に自由を齎すものではないのではないの? それじゃ、単に民衆による監視社会じゃないか」

 金髪を左手で解きながら、朧気に彼女は続ける。

 「そうね。分かるじゃない、監視カメラがそこらじゅうにあることを見ればね。気を許せないのよ、お互いに」

 美紀の隣の重田が、踏ん反り返って伸びをしている。すると、美紀が重田を見ながら微笑を魅せる。それは、モデルのモナリザスマイルよりも、ずっと自然な微笑であることに光輝は気付く。

 「なるほどな、だからつまり、現代ではアイデンティティが拡散しながらも、諸々の人間が集うと一つの有機体のように機能するということか」

 詠美はコンテを紙の上で雑に滑らせて、美紀の前で微笑み続ける裸体の曲美を描いてゆく。

 「……。まぁそういうことね。」

 彼女は不意に年齢を感じさせる顔をしてから、耳元のトルコ石の埋め込まれたピアスに左手を寄せると、今度はだんまりとしたまま、黙々と目の前のケント紙に意識を集中させていった。それは、光輝の紡いだ単純な結論が彼女の未構築の心根を揺るがし、不確かな陰影を紙の上に見出してしまったからだった。ぼかしたはずの肉体の背景に広がる影が、猛然と主張を始めたように思えたからだった。影を覗くプロビデンスの目のような光輝の疑念が、彼女を不快な無秩序へ導き、彼への思惑と微かな動揺を生じさせたのである。

 「しのちゃん。ねぇ、あのさ……」

 詠美は彼と口を利かなくなった。目の前のクロッキーに力を尽くしている振りをしながら、彼を心の中で壁の向こうへ追いやる。時間が、時間が必要だった。思考というより、自分のための情緒を深める時間が必要だった。光輝のその魂を、受け入れるための土壌の開拓が必要だった。

 モデルのアルバイトが、休憩のために足元に置いていたペットボトルを手に取り、口をつけた。重田がその裸体の動きに目を見張っている、クロッキーとは別の陰気な目的で見つめているのを、美紀が非難の眼差しで合図する。

 「光輝君、今日はバイト? 時間あったらさ、石膏を倉庫に運ぶの手伝ってくれない? 独りじゃ、落として壊しちゃいそうで」

 彼も彼女の眼を見つめて、合図した。窓の外では西日が傾いている。

 「あぁ。……心配しなくていいよ。今日はバイト無いからさ」

 モデルの女がペットボトルを足元に置くと室内は静寂し、人々は目の前の白いケント紙に向かって、再び黙々とした汗を散らし始めた。

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