健也
Donald Fagenの『The Great Pagoda of Funn』をi podで聴きながら、健也は街をゆく。国道の界隈では騒々しい夏の宴、蝉の鳴き声と共に、耳元で響く風波の音。歩道には幼い子連れの母親と茶色の滲んだシャツの老人が歩いていて、交差点を二段階右折することなくターンして、トリップ。目の前には、鳥居が見えた。香取神宮の大鳥居が、バイクに乗った彼を獰猛に惹きつけて、加速する二乗の運動エネルギーは増大する。
駐車場には寂れた便所があった。健也は用を足すと、右ポケットから皺しわになったハンケチを手にとっては、こめかみに真っすぐ垂れた汗も拭う。すると目の前に、二三の花壇が映った。毛むくじゃらの、蔦のような蔓が伸びては、昼顔がもこもこと真ん円と微笑むように咲いている。近くに寄ってから、手持ちのNikonを取りだしては、斜め四十五度の角度から彫刻刀で彫り込むように狙って、雌しべを中心に添えて彼は丁寧に写した。
参拝者が絶えぬ神宮の称号ある香取の神域には、幽寂とした清涼な空気が湿った地面の上を平行に流れていた。時々その流れは隆起して、小さな渦を巻いては、とぼとぼと歩く敏感な若い女性には、何ともいえぬ恍惚を覚えさせ、不思議な霊妙が感じられるという。それは、陽気な男どもには感じられぬもののようだった。
健也は社殿に着くと、ニ礼二拝をしてから、がらんとがらんと鈴を鳴らした。その内、小さな駒犬が、はっは、はっはと息をむせながら、飼い主にじゃれつくような感じみたいに彼の傍をうろうろとしている気配がしたが、足元を見ると何も居ない。賽銭を投げてから、気にせず祈念をした。
ざわめく木々の葉、家族連れの談話の声、社殿の中の協和した音色、それら全てがどこかへ遠ざかって、深く深く、彼は己の心の声を聴きながら念ずる。何を願うのか。何を求めるのか。周りの者には何も分からない。それは秘密、秘密の宇宙に真っすぐと繋がり、溶け込み、時々霧散してゆくような、一抹の本心。健也が神域に足を運ぶのは、それしか理由は要らなかった。