島崎
アパートの入口に既に飲み終えた牛乳瓶が数本転がっていた。古田乳業という地元の飲料店が毎朝配達してくれる牛乳である。
哲也はそのアパートの住人で、武山という同級生と一緒にルームシェアをしている学生だった。
「てっちゃん、高校数学の分数関数覚えてる?あれさ、今度研究室の解析で必要なんだよ。教えてくれないか?」
「あぁ数Ⅲの最初のやつやろ、あんなもん教えるほどでもないわ。ほら、参考書貸したる。」
哲也は自分の机の脇にある本棚から『チャート式数学Ⅲ』を取り出し、武山に手渡す。武山はそれを受け取り、炬燵に入ってみかんを食べながらそれを開いて読み始めた。
16インチの液晶テレビが武山の木製の机の脇に置いてあって、丁度夕方のニュースが始まりだした頃である。一本の電話が哲也の携帯に入り、哲也はその電話に出た。
『おぃ、どこにいんだよ!はやくでてこいよ!あ?』
島崎からの電話だった。
『…。島崎か。』
『そうだよ、どうすんだよ。美香が泣いてんじゃねぇかよ。な?な?おまえやったんだろ?な?それで捨てた?てめー、ただじゃすまねぇからな。さっさと大学までこいよ。』
『…。いま家に居るんや。今日は行かないから、明日また学校で会おう。』
『(ぶつっ)』
島崎からの電話はおよそ30秒で切れた。哲也はそれに動揺しつつも、横で武山がチャートの関数を目で一生懸命追って理解している様子に安堵を覚え落ち着いた。
だが、今から島崎がこのアパートに乗りこんで来るのではないかという様子だったので哲也はその後味の悪さに、後の夕食の味もまずく感じられた。
次の日、大学に顔を出した。武山は二限目からだったので、一緒にアパートを出ることは無かった。教室に着くと島崎が居た。彼は何故か今日も淫靡な光沢ある雰囲気を漂わせていて、肩の周りからは黒い霧の様なものが立ちこめている様に見える。
美香がその島崎と一緒に教室で座っていた。二人の周りの空気だけ、何故かブラックホールの様に全ての光を吸収してしまう様子を携え、他のクラスメイトは近寄り難そうにしていた。
美香とは実験班が同じで、先日は図書館でヘモグロビンにおける錯体の構造について調べるために二人で一緒に居たのだった。そして学校を出てから、途中まで一緒に帰っただけだった。
美香を窓際で誘っている島崎は哲也の方を振り向いてこう言った。
「てめーがわるいんだよ!」
哲也は動揺しなかった。
「ごめん、小便しにトイレ行ってくる。」
哲也はトイレに行くと、トイレにある化粧鏡を一発本気で殴った。拳からはどす黒い血が流れ、化粧鏡は蜘蛛の巣の様に血みどろに染まって割れた。