ドゥユ
信也は理学部の校舎を出て、文学部と農学部の間にある庭園まで歩いた。新緑の季節が初夏の日差しを葉の波々で陰に潤している。木片の散らかった丸太の前には、二、三の大木で出来たテーブルと椅子が用意されていて、彼は学食の前の自販機で買ったミネラルウォーターの入ったペットボトルを丁寧に置いた。
信也が煙草に火を点けて、向かいのテーブルに座る女性を見ていると、こちらを向いて微笑んでいた。
「こんにちは。講義はまだ始まらないんですか?」
そこには留学生と思しき女性と、黒髪の赤い薄手のジャケットを着た女性が座っていた。
「えぇ、今日はもう終わりなんですよ。彼女と一緒にランチでもしようと思いましてね。」
信也は煙草を吹かすことを辞めて、携帯灰皿にそれを突っ込むと、腕時計を見てからまた彼女たちの方へ振り向く。
「二人とも何学部なんですか?」
すると、黒髪の方が豊やかな表情で言った。
「農学部。ドゥユも農学部なの。あなたは?」
その留学生の名前を聴いて、どこの国の人なのかとても気になっていた。
「あぁ。僕は理学部。ねぇ、ドゥユさんって…、こんにちは、…どちらの国から来られたんですか?」
ドゥユは信也にこう言った。
「…こんにちは。トルコからきました。」
「へぇー!トルコ…。トルコって、中近東の方だよね。」
彼女は困った顔を少し見せて、持っていた携帯電話で世界地図を表示して彼に見せてくれた。トルコから留学して日本に来ることは、とても高尚なことらしく、日本に来てからの暮らしや文化などに色々と感動しているという。
ドゥユはボーダーのTシャツを着ていて、ベージュのパンツスタイルだった。化粧はしっかりしていて、ピンク色の口紅は新緑に生えるような麗しき色気を帯びていた。
「二人とも農学部で何を研究しているの?」
信也はドゥユの方に特に関心を示していて、色々と話がしたかった。
「畜産の研究ね。主に生産と品質について。」
「ほぉ。生物を扱うのって、とても難しそう。」
信也が思ったことを言うと、黒髪の尚子の方は少々の苦笑いをしていた。その後、三人は三十分ほど学内の話などに興じていた。
「ねぇ、今度さ、飲み会やるんだけど、来てみない?僕はさ、シンフォニックメタルっていうジャンルのロックのバンドやってるんだ。ライブもあるから、ぜひ聴きに来てみてよ。」
信也は別れ際、そのように伝える。尚子とドゥユは嬉しそうにそれに承諾してくれた。連絡先を交換して、信也は二人に手を振って、「ありがとう」と述べてから別れた。
七月三日(日)、今日は神戸にある『ロータス』という飲み屋で、信也の所属するバンドのライブが行われる日である。メンバーの北沢が信也にピックを数枚渡すと、マイクと発声の調整に入った。店の中には多くのお客が既に居る。本番前の緊張したような静けさは、若き青春の清涼感を漂わせる一夏の淡い情緒で、店の入口には幾つかの金属で出来た外国製のオブジェが飾られていた。店内の客はクラッカーとチーズの軽食と共に、ハイネケン一色に染まろうとし始めている。それは談話と友愛の宴であった。
「信也、5弦目緩いんちゃう?」
笹田が信也に忠告をする。チューニングが上手くいっていなかった様で、デジタルチューナーを使いながら、メンバー一同は440ヘルツの共鳴に息を合わせた。丁度その時だ。店の入り口付近に、緑と青の刺繍を凝らしたワンピースを着たドゥユが立っていた。信也は彼女を見つめてから一息つくと、6弦目から1弦目に向かって一気に右腕を振り落とした。彼のライブが始まったのである。会場の空気が変わってゆく。鋭利な刃物によって生まれゆく烏達が荘厳なる空間を飛び交い、目の前に居た数々の人々を魅了した。
ドゥユが信也の見知らぬ女性を連れて、会場の壁際の席に腰を掛けている。店員がオードブルの盛り合わせや、気の利いた肉料理をテーブルに運びこんでいた。
北沢がこの日のために鍛錬してきたデスボイス。それは人間の声とは思えぬ奇怪な轟の様で、目の前に居る人々の胸を躍らせてゆく。笹田の奏でるシンセサイザーは光明の和音を奏で、熊谷のドラムパフォーマンスはその和音と共に激しくうねりを帯びて、数々の神聖な丘陵を形づけた。
四人の魅せる合奏の様々な色の光と漆黒の闇は、彼らを照らす白いスポットライトと鮮麗に激しく交わり、会場の拍手と共に物語を終えた。四人は軽く礼をしてから、楽器を片付けると、会場へと戻って所定の席についた。
「辰己、今日の声の調子、なかなか良かったと思うよ。」
信也が北沢に言う。四人は乾杯して、周りにもライブを聴いた人達が次々に集まって来ていた。
「信也さん。とても、よかったですよ。」
ドゥユだ。隣には見慣れない外国の女性がもう一人居た。
「こんばんは。この前はどうも。本当に来てくれたんですね!ありがとう。」
「いえ、こちらこそ。」
信也はメンバーにドゥユを紹介する。彼女の来ているワンピースの刺繍は緑と青で彩られた柄だった。それはアールデコ、あるいはトルコらしい西洋と東洋の折衷したような不思議な美しい模様だった。
「わたし、ききました、はじめて。シンフォニックロック。」
隣のジーンズ姿の留学生のような女性が言っていた。店員に二人に席を用意してもらうと、笹田が窮屈そうな顔をしていた。
六人とその諸々の人々で、酒と談話に興じて盛り上がる午後八時。他のバンドがジャズ&ソウルなど、新たに人々の耳と目を潤わし始める。
「わたし、しゃべることができない、まだ、にほんご、です。Listening only, I can…」
ドゥユの連れてきた女性は、生粋の国外の方という感じで、イザベラという。信也は身振り手振りで想いを伝えていた。先日、ドゥユと農学部の前の庭園で会って色々話したこと、トルコに行ってみたいことなど沢山話した。彼女はそれを真剣に聞いて、尚且つ何か伝えたいことが沢山あるみたいで、時々眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をしている。
「信也、ドゥユさんって結構ええ女やないか!?よう誘ったな。」
ドゥユがお手洗いに立っている間、笹田が鼻息を荒くして耳元で囁いていた。
「おまえな、イザベラさんに聞かれるよ。」
イザベラが二人の方を見て、難しそうな顔をしていた。
ドゥユは留学してきてから、語学学校でアルバイトをしながら、大学に通っているのだという。先日の尚子とは同じ学科で、よく大学生活のお世話になっているそうだった。日本で学を積んでから国に帰ってからは、畜産の研究所あるいは会社で活躍したいのだという。信也はそれを聞いてとても感心していた。彼は彼女に比べれば、とても地味な夢しか抱いていなかったからだ。数理哲学を扱うような人間が、現実と関わる仕事などあまり無いかもしれない。アクチュアリーになれとか、為替の取引を扱う人間になれとか、そういうことにはあまり関心がなく、純粋に数理哲学に魅了されているだけだったからである。
「ドゥユさん。カッコいい夢を持っているんだね。それに比べて僕は…と思ったよ。」
夜は十時になろうとしていた。『ロータス』の客は半減し、疎らになり始めていた。笹田がイザベラと脇で親密になっていたが、信也はドゥユに親愛なる恋情を抱き始めていた。
「信也さん、トルコ来ることあったら、ぜひ連絡してくださいね。」
彼女の眼差しは凛として美しかった。信也も笹田が述べた様に、いい女は国境を超えるのだと深く思った。
後日、信也は彼女にメールで軽い口調で恋文を送った。すると、彼女から返事はいつまでも返って来なかったので、どうも振られた様である。純粋な男と純粋な女というものは、まるで理想と現実二つそのものの様に思えて、両者の間には一本の深い河が流れているのだと知ったのは、その後少ししてからのことだった。恋には不純な駆け引きが大事なのだと、トルコからやってきたドゥユを通して悟った信也は、翌年三月、ドゥユと共に大学を卒業した次第であった。