竿紀
今日から新年度が始まり、新しいクラスで学校生活が始まる。五十嵐竿紀は休み時間、自分の席に座って新しいクラスメートの雰囲気を体験していた。
教室の後ろの方で男子が騒いでいる。竿紀は自分の作った美術作品が、その男子達の目に留まって、かわれているのを若干面倒に、厄介に思いながらも、自分の席からその作品の良さは何だとか弁明をしていた。しかし作品の評価は自分がするものじゃない。評価はいつも他人が決めるのだ。そして作品だけではない人物の評価も他人がするのだと反芻していた。『自分の評価は他人が決める』という意見がどこかにあったのだと思いだしたからである。
休み時間を終えて、ホームルームが始まった。クラス運営に関して担任の増岡先生が意見を求めた。すると優美で儚げな、少々肉感のあるクラスメートの美羽が席に座ったまま、こんなことを言い始めた。
「竿紀君の考え方に賛成です。竿紀君は去年…。」
去年、竿紀は真面目に生きていたのだ。大局的かつ几帳面なほどに一徹に、何らかの美学、自分の美学を信仰していたのだ。それは荘子にあるような無為にただ自然に生きることではなく、自然を理解し死することのような、極めて反逆的なエネルギーの使い方だったような気もする。その姿勢に美羽が何か共感をしたのだろうか、新渡戸稲造の『武士道』に共感するような、そんなロマンを見出していたのだろうか。いや、本当のところはどうかは分からない。竿紀は彼女の顔を見ながら、俺のどこが魅力的なんだろう、相対的に共有出来難い一つのシナリオに生きている、宇宙のプログラムに組み込まれていたバグのような、追えもできず去らせもできず、変種の何かみたいな…と思っていた。
「あの人、自分のことが好きだよね。」
前に座っていた静子がその隣に座っている健司に小さな声で言った。増岡先生はそれを見て見ぬふりをしながら、黒板に『正』の文字を並べ、多数決による意見投票を重ねていた。二人はホームルーム中に回し手紙をしながら、男女で辿りついた結論みたいだ。
睦言を交わす二人は愛し合っていた。去年、二人は別々のクラスだったのだけども、学内では有名なカップルで、今年のクラスメートの胸中は複雑な気持ちだった。男女の愛はいつも排他的だから、学校という場所には似合わないのだと竿紀はこの学校に入る前から、初めから気付いていた。
「熱々だな、健司。」
竿紀と“同じ趣味”の重田がからかう。竿紀はそれを見て頷きながら、美羽に目をやった。彼女もただ頷いていた。
低学年のあるクラスの子たちが、今からバスに揺られて大人たちに買われてゆくのだという。それは一種の通過儀礼のようなもので、高学年は古い人間なのだろうか、若者に先を越されたのだと妙な劣等感を抱きながら、そのような儀式は私たちの文化には無かったのだと言い聞かせている。
だけどそれだけじゃ何か物足りない、もっと具体的に、いや出来ることならばもっと主体的に、それを出来ないのかと思うようになっていた。
バスに揺られて闇夜に去ってゆく子供たちの顔は、窓越しに皮肉と憎悪と優越感に満ちているように見えた。それは人間性を裏切ることへの背徳感、美羽の希望を台無しにしてしまうみたいな想いそのものみたいに。
しかし竿紀は別に美羽のためにあのような武士の道、タオを見せたかったわけじゃない。彼はただの凝り症なのだ。凝って凝って仕方が無いだけなのだ。
美羽の友人の理枝が言った。
「私たちもしましょうよ。」
理枝は憮然とした表情、どっしりとした声で言った。すると静子がいやらしい顔をして、それを煙たがった。私は満たされていると信じたかったからだ。
こうして、新しいクラスメートが到着した体育館には虚飾がなかった。ただ、それでも満たされない想いは一条の光を求めて、まさぐるように一人の男は一人の女を求め、一人の女は一人の男を求め、巣立った。
最初に巣立った男は竿紀の親愛なる人の元へ行ってしまったので、このとき初めて悔しい想いを抱いたのは、真実の感情で、それはやがては一抹の劣等感に繋がっていった。
人間はきっとそのようにして、劣等感という見えない鎖を繋いでゆくのだ。
「次の人。はい、次の人…」
竿紀の番が回ってきたのだが、竿紀は何故か自分だけ愛されることに強い不安を抱いて、その場に立ち尽くしていると、次の人が先に求めて行ってしまった。
竿紀は愛されることなんてとんでもないと思っていた。だから竿紀はこう言った。
「じゃぁ、逆に俺の所に来る人、この指と~まれ。」
すると、直がやってきた。直は彼にとって親愛なる人ではなかった。しかし、直は自分は完成された女なのだと言い張った。竿紀にとって、それは人間ではなく物体のような気がした。
静子と健司はこの会場に来ることはなかったのだと確認してから、竿紀はまた親愛なる人を見た。
「池沼君はまだまだね、また今度! 八重田君は…、はい、また来週ね。芝山君…。おいで、おいで。いいから私の所においでよ。」
竿紀は自分のわずかに残った恋情と共に、「あぁ、人間ってものは、何て罪深くて、愛しいものなのだろう」と思った。
静子と健司は今頃、どうしているのだろうか。まだ彷徨っているのだろうか。
竿紀は現実で責められることは人間真理のある裏面なのだということに気付いて、いま目が覚めた。