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傷跡令嬢のリバーシ【短編版】

掲載日:2026/04/28

1. 傷だらけのリズ


昼下がりの路地の上で、少年が丸まって痛みに震えていた。

「痛っ……ぁ……っ」

建物の修繕の足場から石畳に落ちたのだ。

手首が曲がり、赤黒く腫れている。

「テオ!大丈夫か!」

親方が足場の上から大声で呼びかける。

通りの人々もざわついて苦しむ少年を見つめているが誰も近寄らない。


細い路地の影から衣擦れの音がした。

石畳の影がそのまま伸びるように、黒いローブを着た小柄な人影が現れ、苦しむ少年に近づく。

深く被ったフードの隙間から、わずかにのぞく唇が、そっと開いた。


「……怖がらなくていい……です」

その声は弱々しいながらも気遣う響きを持っていた。

黒い人影は少年のそばでゆっくりと膝を折って、そっと手を伸ばす。

少年は脂汗を流しながらも、目を見開く。

ローブの袖から、のぞいたその腕は無数の傷跡に覆われていた。

白く美しい肌ではあったのだろう。

だが、その腕は、鋭い傷跡、火傷のようにネジくれた傷跡、様々な傷跡で埋め尽くされていた。

その無残にも痛々しい手が、少年の赤黒く腫れた手を優しく包み込む。


「大丈夫。痛いの、痛いの……飛んでいけ……です」

慈しむような囁きとともに、彼女の手のひらが禍々しい黒い何かに包まれた。

湧き出た黒い塊は泥炭のようにドロリと蠢き、少年の手首にまとわりつく。

少年がびっくりして手をひこうとするのを、黒衣の主は微笑みで制した。

手首を包んだ黒い塊から赤い火花が散り、ふわりと宙に浮かびだした。黒い塊は少年の手を離れ、彼女の白い手首にへばりつく。


「っ……」

黒い塊が彼女の肌に吸い込まれ、腕がわずかに震える。


不思議な塊はすべて消え、ローブの袖から手首が覗く。

そこには新たな、生々しい切り傷がじわりと浮き上がっていた。

それは少年の傷があったところと同じ位置。


少年の手首は、染み一つ無く治っていた。

傷が少年から女性に移ったのだ。


少年が驚きながら顔を上げると、彼女は傷ついたばかりの手を素早くローブの奥に隠し、少年の頭を、優しく撫でた。


「もう、無茶をしてはいけません……です」


ローブとぼさぼさの黒髪で目は見えなかったが、唇だけは穏やかな笑みを浮かべている。


「あ……ありがとう!すごい!治ってる!今の何?!」

無邪気に喜ぶテオの肩を、足場から降りてきた親方がぐいとつかんで、距離を取らせる。


「……おい、テオ。あまり近づくな……あんた……今のはなんだ?!」


向けられたのは、感謝ではなく忌避の視線。

周囲の人も遠巻きに警戒の視線を投げかける。


視線に耐えるように、フードの奥で小さく唇を噛んだ。

黒いローブをきつく合わせ、汚れを隠すように背を向ける。

「ありがとう!黒いねぇちゃん!俺はテオ。名前、なんて言うの?」

少年の純真な問いかけに、立ち去りかけていた背中が微かに揺れた。彼女は足を止め、迷うように俯く。無視して消えることもできたであろう。けれど、黒いローブの女性は誠実に答えた。

「……エリザベス」

消え入りそうな、けれど銀鈴のように澄んだ声が漏れる。

フードの端を指先で強く握りしめ、言葉を継いだ。

「エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル……です」

それは、傷だらけの陰気な女にはおよそ不釣り合いな、貴族然とした名前。

シャンデリアの残火のような、儚くも美しい名乗りだった。

「エリザ……えーと、エリザ……うーん、長いよ、ねーちゃん!」

テオはあっさりと覚えることをあきらめ、

「とにかく、ありがとう!黒いねぇちゃん!」

と浅黒い顔に屈託のない笑顔を浮かべ、手を大きく振った。

「長ければ、ただ『リズ』と……」

リズは優しく笑みで返した。

「わかった!」

「では、失礼します……です」

「ねぇねぇ!黒いリズねーちゃん!お家はどこ?」

お辞儀をして立ち去ろうとするリズに、少年は懲りずにまとわりついていった。



交易の町アントラー、その夕暮れの市場で、大工が騎士に詰問を受けていた。

「……その聖女は、本当に、子供の傷を治したんだな!?」

「ひぃっ!本当だって!」

肩に王家の紋章を胸に刻んだ甲冑を着込んだ大柄な騎士が、逃げようとする親方の肩を掴み、逃がさぬと言わんばかりに詰め寄る。銀色の甲冑が夕日を弾く。

「けどよ、聖女なんて上等なもんじゃねぇ。黒い傷だらけの陰気な魔女だ。禍々しい術を使ってたしな……」

魔女。その言葉を聞いた男の眉間が険しく歪み、掴んだ手にみしりと力がこもる。

親方が再びヒッと短く悲鳴を上げた。

「噂ではなく、本当に起こったことなんだな?」

「そうだ!俺がこの目で見た」

「……その人は、今どこにいる」

有無を言わせぬ威圧的な低い声。

だが、答えはあてにならないものだった。

「し、知らねえよ!よそ者だから、どっかの安宿に泊まってるんだろうが……」

「……っ」

大柄な男は騎士らしからぬ焦燥の表情を浮かべた。

「その子供はどこだ」

「テオの野郎、あの陰気な女についていっちまったから、どこだか……そのうち帰ってくるだろうが……向こうの通りの宿屋のあたりにいるかもしれん」

親方が指した先には、多くの人がゆき交う広い通りが見えた。街の人々が傾きかけた日差しに赤く照らされていた。

「ありがとう。今は余裕がない、これで勘弁してくれ。私は王家近衛騎士のカイル・ケストラだ。後で王家のキャラバンに来てくれればさらなる礼をする」

男はアントラー銀貨を一枚取り出し、大工の手のひらに押し付けた。

「お……おぅ……」

「それと、彼女は魔女ではない。心優しい女性だ。覚えておいてくれ。」

「なんだ?あの女と知り合いなのか?!」

「……わからない」

カイルは表情を曇らせながらも、喉の奥で、数年間片時も忘れたことのない名を、祈るように呟いた。

「……リズ、なのか?」

カイルは人混みをかき分けながら、通りに向けて走り出した。




安宿の固いベッドの上。リズは仰向けに横たわり、細い腕を天井へとかざした。

窓から差し込む夕日が、彼女の腕を赤く浮かび上がらせる。そこには、先ほどの少年テオから引き受けた新たな傷が、筋となって刻まれていた。リズの能力は負傷そのものではなく、その傷跡だけを彼女の肉体へと移す。血が流れることはない。ただ、誰かが引き受けるはずだった痕だけが、彼女の肌に蓄積されていくのだ。

リズは愛おしむように、その傷を指先でなぞった。指に伝わる凹凸の感触がこれまでの放浪の旅を思い出させる。世間の人から見れば、目を背けたくなるような醜い傷たち。けれど、リズはこの傷が嫌いではなかった。少なくとも、自分が誰かの役に立った証なのだから。

指先が前髪の下に移り、隠されたひときわ深い古傷、左目の傷に触れた瞬間、リズの指が、静止した。

「……カイル」

こぼれ落ちたのは、胸の奥に閉じ込めていた幼馴染の名。

彼を救った代償として刻まれた、最大にして最愛の傷。

後悔はしていない。けれど、彼と会うことは二度とないだろう。

(この傷の理由を知れば、あの人は……きっと、一生、彼自身を責めてしまう……)

カイルの眩しい笑顔を思い浮かべると、胸がずしりと重くなる。

そしてつい、もっと悪いことを思い浮かべてしまう。

(こんな変わり果てた姿では、私だと気づいてさえもらえない。髪の色だって、あのころとは違う)

彼の記憶から私はとっくに消えてしまっているかもしれない。

手をそっと、左目から喉の傷に伸ばす。

その喉の奥に、熱いものが込み上げ、残された右目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って耳へと流れる。

涙の熱さが、孤独をつのらせる。


(……なぜ、名乗ってしまったんだろう)

リズは涙をぬぐうように両手で顔を覆った。

隠遁の身でありながら、捨てたはずの「クロムウェル」の名を明かしてしまった。

テオの無邪気な瞳が、かつての幼いカイルに重なって見えてしまったせいだろうか。

五年前、炎の海に沈んだクロムウェル家を思い起こす。

家族は誰もいなくなってしまったあの日を境に、名を捨てた。

残された家財は純白の魔導書一冊だけ。


「……早く、この町から離れないと」

誰かに気付かれる前に。

そして何より――万が一にも、彼にこの姿を見られてしまう前に。

ぐぅ。と情けない音が静かな部屋に響いた。

途端に、切ない感傷が霧散していく。

能力を使った後は、いつもこうだ。


「何か……食べてから、町を出ましょう……」

自分に言い聞かせるように呟きながら、ベッドから身を起こし、手早く黒いローブを纏い直した。


リズは手荷物を抱え、宿屋の食堂兼受付へと降りてきた。

夕餉の香りが立ち込め、宿泊客たちの賑やかな声が漏れ聞こえてくる。

足元では、白黒の看板猫が「にゃあ」と喉を鳴らして彼女の裾に身体を擦り寄せてくる。


「……今日、この町を発ちます……です。宿代を……」

「なんだい急だね。もう夜だよ。せめて朝まで待ちな。夜道は物騒だ」

恰幅の良い女将が怪訝な顔をする。

「申し訳、ありません……です」

カウンターに銀貨を置こうとするリズを、女将が止める。

「いいんだよ、宿代なんて!あんたはうちの旦那の命の恩人なんだ。路銀だって物入りだろう、取っておきな」

「すいません……お世話になりました……」

温かな厚意を振り切るように、リズは宿の扉を開け、外へと足を踏み出した。

通りの人混みの向こうから、元気な声が響いた。

「あ!いた!おーい、黒いねーちゃん!」

テオが、波打つ人混みを縫うようにしてこちらへ走ってくる。

「テオ……?どうしたの?」

「はぁ、はぁ……!あのさ、ねーちゃん、リズっていうんだよね?すげー強そうな騎士の人がねーちゃんを探してるんだ!」

テオが指差した、通りの向こう側。夕日に照らされた人波を割って進んでくる、一際大柄な銀色の背中が見えた。白銀の甲冑がきらめく。涼やかな目、刈り込んだ黒い髪、その大きな肩。

その姿を目にした瞬間、リズの目は引き寄せられた。


「おい、少年。そう急ぐな。……おっと、失礼。お怪我はありませんか?」

不意にぶつかりそうになった通行人を片手で支え、穏やかに詫びる、低く心地よい響き。

一日たりとも忘れたことのない、愛おしい声。

(カイル……っ!?)


カイルだ間違いない。

記憶にある姿より背丈は伸びているが、その優し気な顔はかつての姿と全く同じだ。

なぜ、ここに?私を探して?!

カイルまでの距離が、一歩ずつ近くなるのを見て、リズは手を宙に差し出す。


会いたい。

でも、この姿を彼に見せるわけにはいかない。

リズは手を引き、踵を返して背を向ける。

「ねーちゃん!?待ってよ!」


テオの呼びかけを振り切って、リズは黒いローブをはためかし、近づくカイルから逃げ出してしまった。




2. べラム・ゲセン侯爵の強欲



夕暮れ時、雑踏の合間から、懐かしいカイルの姿を見て、リズの背すじは熱く、そしてすぐ氷柱のように冷たくなった。

その姿を見て、リズは弾け出すように逃げ出した。

走りながら、失った左目をローブの上から押さえる。


(カイル……!カイル……!)


会えない。

この姿で会えるわけがない。

リズはわき目も振らず、人ごみを縫って、石畳を進む。

後ろで、カイルが何か叫んでいるように聞こえるけど、雑踏のざわめきが、それをかき消してしまっている。

会えない、それでも会いたい。

心の奥底では会いたいと思うけれど、焦燥に駆られる脚は止まらず、カイルとの距離はみるみる離れていってしまう。

カイルの声が遠くなっていく。


会いたい。会えない。

入り混じる思いがなおも足を駆る。

リズは、人波をかき分けて、石畳を進む。

だが、早鐘を打つ鼓動と切迫が、駆ける歩幅を乱し、足をもつれさす。


足がもつれ、積み上げられた荷台に体がふれ、そのままローブの裾がひっかかり、リズは転んでしまった。黒いローブに包まれた小さな体が、鈍い音を立てて、石畳の上を転がる。

転んださなかに、深く被っていたフードが脱げてしまう。

リズの顔が、冷え始めた秋の空気に触れる。


夕陽のもと、衆目にさらされたのは、額から頬、喉に至るまで縦横無尽に走る無数の傷跡。

潰れた左目。美しい面影を無残に塗りつぶした、傷だらけの顔だった。


市場の通りを行き交う人々が驚いて歩みを止める。

「ひっ……なんだ、あの顔」

「うわっ……かわいそうに……」

突き刺さるような蔑みと好奇の視線、警戒と同情の息遣いが通りに満ちる。

リズは震える手で顔を覆い、地面にうずくまった。


カイルにだけは見られたくない。この姿を。この傷を。

カイルが冷たく見下ろす様を想像してしまい、心がかき乱される。


今すぐに逃げ出したいが、心に絡まる鎖が足取りを縛る。


ざわつく人混みの中を、一歩、また一歩と重い足音が近づいてくる。

重い鎧の金属音。

リズは固く目を閉じ、石畳を掻いた。

(あぁ来ないで!!)

その時。

「……ようやく、見つけたぞ……リズ!」

降ってきたのは、拒絶ではなく、慈愛に満ちたカイルの声だった。

聞きなれた声。

何年もの間、自分が欲しかった言葉。

リズの凍りついた心が僅かに緩む。

それでも、顔を上げることができない。

「……っ、人違い……です!」

叫ぶように告げて、リズは立ち上がった。

混乱する人混みを力任せに押し退け、細く暗い路地に入る。

「リズ!」

カイルの必死の呼びかけを振り切るように、リズは影の中へと走り去った。

カイルはさらにリズの後を追おうとした。だが、路地の狭さが、彼の大柄な体と鎧を阻む。


リズの姿はもう見えない。

「くそっ……!」

カイルの端正な顔が焦燥に歪む。

「……テオ!すまない、頼みがある」

カイルは膝をつき、少年の目線に合わせてその肩を強く掴んだ。

「彼女を……リズを追いかけて、居場所を教えてくれ。俺は今、護衛任務から離れるわけにはいかないんだ」

「えっ?うん。いいけど。でも、どうやって教えればいいの?」

「王家のキャラバンまで来てくれ」

「キャラバン?」

「中央の広場で野営をしている」

カイルは、北東の広場を指さした。

「そこにこの鎧と同じ紋章が入った大きな天幕がある。そこでカイル・ケストラに言伝があると伝えてくれ。誰か取り次ぐはずだ……いいか、今の頼れるのは君だけだ!」

立派な近衛騎士が少年に必死の願いを託す。

ありえない行為だが、テオは胸を張ってその依頼を受けた。

「わかった。黒いねーちゃんを見つけて、天幕に行けば良いんだね」

「頼んだぞ。テオ。礼は必ずする」

カイルは後ろ髪惹かれるように、市場の街路に向かった。


一方、リズは湿った暗い路地の隅で、激しく上下する肩を抑えて立ち尽くしていた。

肺が焼けるように熱い。

けれど、それ以上に胸の奥が、熱く速く脈打っていた。

(……見つけて、くれた)

傷だらけのこの姿でも、カイルは一目で、迷うことなく「リズ」だと呼んでくれた。

それだけで、報われた。もう、これだけで十分だ。

これ以上望めば、きっと彼を不幸にしてしまう。

リズは決意を新たに、路地の向こうの、街の北西門へと足を向けた。


リズの背後から、軽い足音が近づく。

「ねーちゃん!待ってよ!」

必死に走ってきたテオが追いついてきた。

「ねーちゃん、行っちゃうの?あのにーちゃん、すげー必死にねーちゃんを探してたよ!?」

「……会うわけにはいきません……です」

「なんでだよ!あのにーちゃん、ねーちゃんの名前呼んで泣きそうな顔してたのに!」

真っ直ぐな言葉が、リズの心に鋭く突き刺さる。

自覚があるほどに、耳たぶが熱く火照っていく。

フードがその赤みを隠してくれていることに、リズは感謝した。


「これでもう十分……です」

リズは未練を断ち切るように、歩き出し、路地を抜け、門に続く広い通りに出た。



その時だった。夜の静寂を切り裂くように、前方から地響きのような音が迫ってきた。

石畳を踏み敷く車輪の音。荒々しい馬の蹄の音。

大きな黒塗りの馬車が門を通り抜けてきた。

車体とバナーには、黄金の蛇の紋章が刻まれている。馬車に付き従うのは十数人の兵。

「侯爵様の馬車だ!」

テオが興奮する。黒い馬車は二人の目の前を勢いよく過ぎ去り、巻き込んだ空気と砂塵を周囲に撒き散らす。馬車は二人から10メートルほどの位置で停止する。あまりに急な停車で車輪が石畳にこすれ、火花を散らす。


御者が車室に近づいて、恭しく扉を開くと、澱んだ冷気が溢れ出した。

姿を現したのは、どこか蛇を思わせる酷薄そうな男。

男が、二人に視線を送る。


「これは運がいい」

男は馬車を降りながら、リズを指さす。

「……この町で傷を治した黒い魔女とは、貴女のことですね?」

低く、どこか芝居がかった声に、リズは身構える。

「あなたは?」

「申し遅れました。私はアントラー侯爵べラム・ゲセン。この一帯の領主です」

テオの見立ては正しかった。

「黒いフードの小柄な傷だらけの女。噂通りですね」

侯爵の視線が自身の腕に注がれているのを見て、リズはローブで腕を隠し、身構える。

「なぜ侯爵様が私の事を知っているのですか?」

侯爵の放つ底知れない気配に、リズは名乗ることを躊躇した。

「ハッハッハ……聞いたことはありませんか?アントラーの噂は風よりも速い……交易の町ですからな……そして……面白そうな話は必ず領主の私のところに即座に届く」

べラムは指先を自身の耳にあてながら、自信たっぷりの笑みを見せる。

テオが小声でささやく。

「本当だよ。侯爵様はいろいろヤバい噂があるから気を付けたほうが良いよ」

「聞こえてますよ?少年。ただ、町の子供にまでそう思われているのは悪くない。さて、魔女殿、噂は本当ですか?」

テオはリズをかばうように前に出る。

「……私は、魔女ではありません……です」

「そうだぞ!このねーちゃんは、傷だらけだけどすげー優しいんだ。魔女じゃないぞ!」

べラムは二人の反論を気にかけることなく、両手を広げて自分語りを始めた。

「私は価値ある希少なものを愛します……宝石、絵画、彫刻、衣服、能力、人材……あらゆる宝を集めるのが私の趣味なのです……」

リズとテオは警戒の視線を侯爵に送る。

「『人の傷を治す能力』……まるでおとぎ話のようです……見たことも聞いたこともない!是非ともその『奇跡』を私に見せてはいただけませんか?」

「……お断り、します……です」

無礼な要求をリズはにべもなく断った。


「何、謝礼は望みのままさしあげましょう。もっとも、その力があれば、金などいくらでも稼げるかもしれませんがね」

ベラムの人間を品定めするような視線。

それはリズが最も嫌うものだった。

「私の力は……見せ物でも、金儲けの道具でもありません……です」

「なんと。善意で治していると?これはまた無欲な……」

ベラムが薄く笑い、一歩踏み出す。

リズは生理的な嫌悪を感じ、思わず後退った。

「これからこの町を出ます……失礼します……です」

「ご存じないかもしれませんが……私は……欲しいものは必ず手に入れる性格でね」

ベラムの腰から剣が引き抜かれた。かがり火を反射する白刃に、リズとテオは身を震わせる。

しかし、男が向けた刃の先は、リズでもテオでもなかった。

肉を断つ嫌な音が響き、鮮血が石畳に飛び散る。

「っ!?侯爵、何を……!」

ベラムは、傍らにいた自らの手下の腕を深く斬り裂いたのだ。

血を噴き出す腕を押さえながらへたり込む手下を見下ろし、侯爵はさも困ったように眉を下げてみせた。

「これは困りましたね。急所は外れているようですが、このままでは私の大事な部下が失血死してしまう」

「正気……ですか……っ!?」

「正気ですよ。私は貴女の力がどうしても見たい。だが貴女は善意でしか動かないという。ならば、こうして救うべき人を用意して差し上げるしかないじゃあないですか」

狂っている。リズの背すじを冷たい汗が伝う。

「……それでも、お断りします……」

歯を食いしばって拒絶するリズ。

「仕方ありませんね」

ベラムは軽い身のこなしでテオの背後に回ると、その細い腕を強引に捻り上げ、少年の喉元に冷たい刃を押し当てたのだ。

「やめろ……!離せ!」

テオは身動きできず、悪態をつくので精一杯だ。

「こんなやり方は優雅さに欠けるので好みではありませんが……さあ、選んでください。早くしないと、治療が必要な人間が、もう一人増えることになりますよ?」

喉元に当てられた刃が、テオの柔らかな皮膚に食い込む。

「……っ!治します!!……治します!!」

やむにやまれず、リズは倒れ伏した侯爵の手下の手を握った。

禍々しい黒い泥がリズの腕を這い、傷を吸い上げていく。

代わりにリズの体には、新たな痛みの刻印が刻まれる。

その光景を、ベラムは歓喜に震える瞳で見つめていた。

「すばらしい……!これはどれだけの価値があるかわからんな!」

治療が終わり、荒い息をつくリズの顎を、ベラムは白い手袋越しに、掬い上げた。

「決めました。貴女は、今日から私のものだ」

「……テオを、離してください」

「解放すれば、私に大人しく従うと誓いますか?」

「……従います……」

屈辱に唇を噛み、リズはうなだれた。

「よろしい。我が屋敷に招待しましょう」

べラムはリズの手をつかみ、馬車に引き込む。

馬車の重厚な扉を閉めながら、年老いた執事が侯爵に伺いを立てる。

「侯爵、王子がこの先のキャラバンで待たれているようです。いかがなさいますか?」

「放っておけ、どうせ正式な面会は明日だ」

「かしこまりました」

扉は閉められ、馬車は北の街区へ向けて走りだした。


既に暮れた門の前で、テオは、去り行く馬車を見ながら、涙をこらえていた。

だが、泣いている暇はない。意を決して、テオは走り出した。

中央広場の王家の天幕。

騎士カイル・ケストラの元へ。




3. カイル・ケストラの悔恨



町の広場に多くの天幕が設置されていた。

その中央にひときわ大きな白亜の天幕が、紺のバナーをはためかせている。

天秤と剣の紋章。それは幼子も知るヴィア・ストライド王家のもの。


テオはその天幕の入り口で、喉を引き裂かんばかりに叫ぶ。

「お願いします!!騎士のにーちゃんに……カイル!騎士のカイル・ケストラに伝言があるんだ!」


その声に集まった兵たちが少年の行く手を阻む。

「坊主。どうした?ここは子供が来るところじゃないぞ」

「リズねーちゃんが大変なんだ!カイルのにーちゃんにどうしても伝えなきゃいけないんだ!俺、カイルのにーちゃんに頼まれたんだよ!」

テオは懸命に声をからす。

兵たちが顔を見合わせていると、天幕の内側から柔らかな声がする。

「通してあげなさい。これほど必死な伝令を無視するわけにはいくまい」

「は!承知しました!」

兵たちに連れられて天幕の中に入ったテオが見たものは、簡素に仕立てられた執務室のような空間。

テーブルと多くの椅子。広げられた地図と書類の数々。

訓練の行き届いた兵士と文官がせわしく行きかう空間は、テオにはなじみのないものだった。

身を縮こまらせるテオ。


テーブルの主が、テオへ穏やかな微笑を向ける。

鋭くも、優しい笑み。金髪から除くエメラルドの瞳が気品を漂わせている。

「少年よ、報告を聞こう」

その堂々とした態度に、テオは安心し、一気にまくしたてる。

「あの!リズねーちゃんが悪い奴らに捕まったんだ!にーちゃんに、すぐ、すぐに伝えないと……!」

「落ち着きなさい。悪い奴らとは?」

「侯爵様だよ!リズねーちゃんが馬車で連れてかれたんだ!この街にいるはず!」

その名が出た瞬間、男の眼光が険しくなった。

「ゲセン卿……アントラー侯爵…か……視察に来て早々にこれとはな。カイルを呼べ」

男は傍らの兵に短く命じ、兵は即座に天幕を出た。

「頼むよ!カイルにーちゃんだけが頼りなんだ!」

「急くな、少年。カイルは確かに頼りがいのある男だが――こう見えて、私も少しは役に立つぞ?」

テーブルに両肘をつき、少年にいたずらっぽい視線を投げかける。

「……にーちゃん、誰なんだよ」

テオの純粋な問いに、男は落ち着き払って優雅に名乗る。

「ヨハン・ストライド。この国の第一王子であり、王太子である」

「えっ……」

思いかけない名前に、テオは息をのんだ。


1分もしないうちに、カイルが天幕に飛び込んできた。

「王子!お呼びでしょうか」

「カイル、君への勇敢な報告だ。……聞きなさい」

促されたカイルはテオに気付く。兜の隙間から見える表情に緊張が走る。

「テオ!?……リズはどうした!」

「ねーちゃんが……ねーちゃんが悪い奴らに連れていかれちゃった!助けなきゃ!」

テオが叫び終わる前に、カイルが鋭く問う。

「場所はどこだ」

「北西の門……でも、もうそこにはいないかも。おっきい馬車でつれていかれたんだ」


テオは申し訳なさそうに下を向く。

「アントラー侯爵の別邸だろう。上角区……北の街区にあるはずだ」

ヨハン王子の頭の中には、街の構造が入っているようだった。

「明日には面会し、ゲセン卿の疑惑を問いただす予定だったが……まさか、今この瞬間にも悪事を重ねているとはな……」

腕を組み思案する王子の前で、カイルは拳を握りしめる。

鎧の籠手の軋む音が響く。

「カイル、どうした?」

彼は王子の問いに答えず、膝をつき、王家の紋章が刻まれた鎧を脱ぎ、地面に置いた。

「王子……申し訳ありません。このカイル・ケストラ、たった今、近衛騎士の職を辞させていただきます!」

「何!?」

「これから私がやることは王家とは無縁。全て、私一人の責任です!」

言うが早いか、カイルは腰の剣を強く握り締め、翻した背中で風を切った。

王子の許しも待たず、夜の闇へと飛び出していく。

残されたヨハン王子は、しばし呆然とその背中を見送っていたが、やがてくすりと、楽しげに肩を揺らした。

「驚いたな……あの堅物が一人の女のために、全てを投げ捨てるとはな」

王子はゆっくりと腰を上げた。その瞳には、驚きと呆れ、それを上回る興味が宿っている。

「その女、会ってみたくなった――軍を動かすぞ。

 ゲセン卿は危険な男だ。カイルの身が危うい。隊長を呼べ」

王子は表情を引き締め、傍らの兵に命じた。

「はっ!」

兵たちに緊張が走る。




夕闇の街路、カイルはアントラー侯爵邸を目指し、駆けていた。


あれから5年、リズを探し続けていた。

近衛騎士として護衛の任務で、様々な土地を訪れることができたのは幸いだった。

無数の土地で、できる限り探して回った。

この地で「傷を治す魔女」の噂を聞いたときは耳を疑った。

千載一遇の機会。そしてそれは間違いなくリズだった。


ようやく会えたというのに。

ここでリズを失うわけには行かない。


胸を締め付ける苦しみが、5年前の惨劇を思い起こす。


リズのクロムウェル家が賊に襲われたあの日、カイルはリズを助けるために荒れる屋敷に飛び込んだ。

そこにいたのは賊というより兵だった。統率の取れた男たちは、鎧の紋章を隠し、何かを探しているようだった。


「リズ……ここに隠れていてくれ。俺が賊を迎え撃つ」

「カイル!やめて!」


叫ぶリズを、地下貯蔵庫に逃がし、重い扉を閉める。


リズを守るべく、剣を構えるカイルの前に現れたのは、賊には似つかわしくない、流麗な身のこなしの男だった。とんでもない手練れ。野盗にはありえない、流れるような剣技の持ち主だった。


カイルは数合も持たず、態勢を崩された。


そして、左目を熱い衝撃が貫く。視界が朱に染まる。

体勢を立て直す間もなく、冷たい刃がカイルの喉を深く薙いだ。


「ゲフッ……」

致命の一撃を喰らって、カイルは仰向けに倒れる。


「筋は良いが……若いな……」


長髪の剣士は、倒れたカイルを一瞥して、館の奥へ駆けていった。

カイルは残った右目で、遠ざかる賊の背中を見つめる。


「……ぐ…ゴボっ……!」


喉を満たす血に、死を感じた。


若きカイルにとって、死は恐ろしくなかった。

だが、リズを賊の手にさらすことだけは耐えがたかった。


扉を開けて、リズを逃さなくては……しかし、心の中の叫びも虚しく、指を動かすことすらできなかった。


薄れゆく意識の中で、カイルは懸命に叫ぶ。

(……リズ……を逃さなくては……リズを……)


だが、死の泥濘が、意識をさらに深い闇に引きずり込む。

その最中、不意に、温かな感触を頬に感じた。


「——っ!?」


痛みが吸い取られ、体の奥底から生命が沸き立つ。

傷口がふさがり、神経がつながっていく感覚。

斬り裂かれた左目すら、その光を取り戻していくのを感じた。


(これは……奇跡か……)


希望にすがりながら、薄目を開けるカイル。


ぼんやりと視界に入ってきた光景は奇跡ではなく、思いがけない絶望だった。


泣きはらすリズ。

その美しい左目は無惨に潰れ、喉にも大きな傷があった。


それは自分が負ったはずの傷。未熟さの代償。

カイルはリズが自分の傷と死の運命を負ったことを直感した。


(リズ……!)

叫びたいが、喉に詰まった血がそれを許さない。

失った血の多さに、意識が遠のく。


リズは地面に置いた白い本を手に取って、立ち上がり、屋敷の廊下を駆けていく。小さくなっていくリズの後ろ姿。


(リズ……すまない……せめて……無事でいてくれ……)


カイルは灼ける鉄のように激しい悔恨を胸に刻みながら意識を失った。



その悔恨は、鉄の意思となり、肉体を剣技を鍛え上げた。

揺るがぬ意思を胸に、カイルは今、リズが囚われている館の前に立っていた。



交易都市アントラー上角区

アントラー侯爵ベラム・ゲセン別邸。


見上げた先には、堅牢な石造りの建物があった。

無数の篝火に囲まれた邸宅は、禍々しいばかりの富と権益を勝ち誇っている。

(……あの時は、何もできなかった)

過去の痛みを思い起こして、喉に手をやる。

(だが、今は違う)

手で左目を覆い、リズに誓いを立てる。

(リズ……必ず助ける)

腰に差した大剣を抜き払う。

刃筋が篝火を照り返す。


「俺は……二度と……リズを失わない!」

カイルは黄金の瞳で、夜闇の中煌々と照らされた不気味な扉を睨みつける。





4. 傷跡令嬢のリバーシ



アントラー侯爵邸の豪奢な応接室に、リズは座っていた。

テーブルには、贅を尽くした料理が並んでいる。

だが、リズは冷え切った目でそれらを見つめていた。


「そうおびえずともよいでしょう。私は、自分の宝は大事にする性質でね」


向かい側に座るベラム・ゲセンは、ガーネット色のワインを揺らしながら、リズを値踏みするように見つめる。リズはこの男に所有物のように見られていることが、嫌でたまらない。


ベラムは上機嫌で持ちかける。


「その力で商売をしてみませんか?金持ちの貴族連中が列を成すでしょう」


リズは沈黙のまま、拒絶の視線を返した。


「どんな金持ちも、自らの健康のためにはすべての財を差し出すもの。あなたの力にはとてつもない価値があるのですよ」

「私はこの力を金儲けのために使おうとは思いません……です」


熱っぽく語るベラムを、リズは震える声で切り捨てた。

ベラムは心底理解できないといった風に、大仰に肩をすくめてみせる。


「何故だ?金には苦労しているように見えるが?」

「貴方のような方に、分かっていただこうとは思いません!」

ベラムが冷笑を浮かべ、沈黙の時が流れた時、遠くから怒号と金属音が響き渡った。

「何事だ」

かすかに眉を寄せたベラムの問いに答えるように、老執事が転がり込むように入ってきた。

「も、申し訳ございません……何者かが襲撃を……!単身のようですが、兵が押されており……」

その言葉が終わるより早く、応接室の扉が大きな音ともに蹴破られた。

「リズッ!!」

現れたのは、鬼気迫る表情を浮かべたカイル・ケストラだった。

手に握られた大剣はおびただしい血に濡れ、彼自身の身体にも無数の切り傷が刻まれている。

口を覆った両手の隙間から、リズの叫びが漏れる。

「カイル……! なぜっ……!」

鬼神のようなカイルの表情が一瞬緩む。

「リズ……」

だが、すぐに険しい顔を取り戻し、べラムに告げる。

「アントラー侯爵べラム・ゲセン!リズを返してもらおう!」

「やれやれ何という野蛮な闖入者だ。無論、お断りする」

「……力ずくでも、返してもらう!」

カイルが剣を構え直す。

ベラムは落ち着き払った動作で腰を上げ、あざ笑うようにカイルへと近づいていった。

「困りましたね。これでは交渉になりませんな……」

「貴様と交わす言葉などない!」

カイルは数歩先に対峙するべラムに言い捨てる。

べラムは呆れた風に肩をすくめ、手をだらりと下げる。

「なるほど。ですが、私は彼女の力に惚れ込んでいましてね。……ちょうどいい。彼女の力がどれほどのものか、実験に貴方に協力してもらうとしましょう」

「何を――」

ベラムの手がジャケットの懐へ滑り込み、鈍く光る金属の塊を取り出し、その筒先をカイルに向ける。

そして鳴り響く耳をつんざく爆音。

カイルの身体が大きくのけ反った。

「私は珍しいものに目がなくてね……これは『銃』……東方で開発されたホイールロック式拳銃と言います」

硝煙が漂う中、べラムは細かい装飾の銃を見せびらかした。

「あ……が……っ」

カイルの厚い胸板から血が噴き出し、彼は重たい音と共に、仰向けに絨毯へ倒れた。

「カイルーーーーーッ!!」

悲鳴とともに、リズはなりふり構わず彼のもとへ駆け寄った。

「この国では見ることのできない珍しい武器です。

 貴重な弾丸を使ったのです。それにふさわしい光景を見せていただきたいものです」

ベラムは酷薄な笑みを浮かべ、楽団の指揮者のように優雅に手を広げる。

「さて、リズ。貴女の『奇跡』……再び見せていただきたい。どうぞ、その男の命の灯が消え果てる前に」

「はぁ、っ……や、やめろ、リズ……。もう、お前が……傷つく必要は、ない……っ」

溢れ出る血を吐き出しながら、カイルが弱々しく手を伸ばした。

リズはその手を両手で握りしめ、必死に首を振る。

「喋らないで、カイル! すぐに、今すぐに治しますから!」

「……あの時、俺を救ってくれて……ありがとう……」

不意に落ちた感謝の言葉に、リズの思考が止まった。


「知っていたの……!? 」

「もちろん……」

カイルの瞳には、長年にわたって積もった感謝と愛情の灯があふれていた。カイルは震える手でそっとリズの左目の傷を撫でた。

「ずっと……伝えたかった……俺の想いも……生きていてくれてよかった……ありがとう……リズ……」

「カイル……っ!」

リズは零れ落ちる涙を拭いもせず、彼の胸に両手を当てた。


可憐な唇がきつく引き締められる。リズの祈りに応えるように、両の手からかつてないほど濃密な「黒」が溢れ出した。

ドロリとした泥炭のような塊が、カイルの分厚い胸元を素早く包み込む。

「やめろ、リズ! これ以上……君が……苦しむことはない!」

カイルは必死にリズの腕を押し戻そうとする。

だが、リズの決意は揺るがない。

「私が救います!」

激しい火花が散り、黒い塊が宙に浮く。

その禍々しい塊は、リズの胸元へと吸い込まれ、彼女の柔らかな肌を赤黒く苛んだ。

「う、あぁ……っ!!」

リズは激痛に身を震わせ、肩で息をするも、崩れ落ちるのを耐えた。

そして、荒い息をこらえながらも、傷だらけの手をカイルの胸に触れ、指でそのたくましい胸板をなぞる。先ほどまであったむごたらしい銃創は消えている。力強い鼓動を刻む本来の肉体が取り戻されていた。

「リズっ!!」

「良かった……」

リズは、カイルの無事を確認したことで緊張の糸が切れ、その場に倒れ込んでしまった。


「すばらしい! 実にすばらしい!」

高価な銃を弄びながら、ベラムがゆっくりとリズに歩み寄る。

「瀕死の重傷さえ瞬時に癒す。戦場においても、政治の場においても、この価値は計り知れんな……これほどの宝が手に入るとは……良い夜だ……」

ベラムが喜悦の笑みを浮かべ、弱り切ったリズの手首を乱暴に掴み上げた。

瀕死の重傷を吸い取ったリズ。その目は光を失い、体はだらりと垂れ下がっている。

黒いローブとバサリと垂れる黒髪が死の影を落としているように見えた。

「リズ!」

カイルの顔が絶望に凍り付く。

「これはまたとないコレクションだ!我が宝にふさわしい!」

酷薄な男の賞賛と哄笑が、部屋に響く。

「貴様!」

カイルが食い殺さんばかりの勢いでベラムににじり寄る。

だが、ベラムは左手でリズの腕をつかんだまま、銃を再びカイルの胸元に向ける。

「2度も撃たれるつもりか?次は治るか分からんぞ?」

カイルは苦しげに銃口を見つめる。

勝ち誇るベラムの足元で、リズの目が光を取り戻したことにカイルは気付いた。

(リズ……!!)

カイルは泣きそうな目でリズの瞳を見つめる。



(あぁカイルが無事で良かった……)

混濁する意識の中でリズは思った。

でも、カイルはまだ苦しそうな顔をしている。何故?

暗く落ち込む視界を上に振り、ベラムに向ける。

そこには再びカイルに向けられた銃口があった。

それを見た瞬間、リズの意識は泥濘から引きずり出された。


(カイルが危ない!)

リズの心の奥底に光が灯る。

(カイルを……私の大事な人を……これ以上、傷つけさせはしない)

心に灯った思いはみるみる、膨れ上がっていく。


普段は夜の海のように穏やかなリズの目が、熱を持ち、猛り狂う。

嵐と踊り狂う波濤のような激情の光。


リズはすっくと立ち上がり、掴まれたままの腕で、逆にベラムの手首を強くつかむ。

「もう立ち上がれるのか?!素晴らしいな!」

カイルに銃を向けたまま、なおも喜悦の表情を浮かべるベラムの表情を見て、リズは自身の心の鎖を断ち切った。


「……貴方だけは……決して……決して……許しませんっ……!」

リズの叫びが、周囲の空気を拍動させる。

そして、彼女の全身を、顔を覆う、ありとあらゆる傷跡――切り傷、ネジくれた古傷、刺されたような痕――そのすべてが、赤黒い光を放ち始めた。黒いローブがその不思議な光にあおられる。

「な、何だ……これは!?」

不可思議な現象に、ベラムがたじろぐ。

「コンウェルシオ・マキシマ……」

リズが古く失われた言葉を小さく口にすると、彼女の肌の上で、傷跡がミミズのように蠢き、這い回り、集い始めた。それらはどす黒い血の色の蛇となって、リズの肌を駆け巡り、浮き上がる。その線は、赤色から、漆黒の線となり、螺旋となって彼女の体の周囲に舞い、包み込むつむじ風へと変貌する。

リズは仇敵の腕を力いっぱい掴んで叫ぶ。

「……『リバーシ』!!!」

リズが、自身で絶対に使うことがないと思っていた力の名前。

全ての傷を反転させる力『リバーシ』

螺旋の速度はみるみる増し、黒いローブをはためかせる。黒く、禍々しいその風は、風切りの音さえも響かせつつあった。その風は、リズが引き受けてきた傷そのもの。黒いつむじ風はローブの、リズの髪の黒色をも吸い取り、より濃い漆黒の螺旋を形作る。積年の幾千もの傷が黒いつむじ風となって、ベラムの体に襲い掛かる。

「ぐ、あぁぁぁぁっ!」

ベラムの悲鳴が轟いた。リズがこれまで吸い取ってきた数々の傷そのものが、ベラムに襲い掛かったのだ。べラムの皮膚という皮膚に、切り傷が、刺し傷が、裂傷が、火傷が、あらゆる傷が無数に刻まれ、鮮血を撒き散らしていく。

つむじ風が過ぎ去った後、そこには変わり果てたベラムの姿があった。

贅を尽くした衣装はズタズタに切り裂かれ、その下にあった潔癖な肌は、ありとあらゆる醜い傷跡で埋め尽くされている。全身から血が噴き出し、白目をむいて、あお向けに崩れ落ちた。

そして、暴風が止んだ中心に、彼女は立っていた。

カイルは息を呑むのも忘れた。


そこにはもう「傷だらけの黒い魔女」はいなかった。

彼女を呪縛していたどす黒いローブは、祝福された花嫁のケープのようにまばゆい白を放つ。

その光のローブからこぼれるのは、天界の糸を織り上げたような白銀の長髪。

窓から差し込む月光をきらめかせ、微かに残る風に揺蕩う髪は、滑らかに空を撫でる。

肌を覆っていた古傷は、跡形もなく、白磁を磨き上げたような滑らかさを取り戻し、月の光を透かす。

そこに差した淡い桃色の血色は、儚げな、そして芯のある美しさを湛えていた。

ゆっくりと、長い睫毛が震え、その瞳が開かれる。

潰れていたはずの左目には、夜の海を封じ込めたような瞳が宿っていた。

右目の輝きと共鳴し、その双眸が時を止める。

指先の一つ、睫毛の一本に至るまで、穢れのないディアナのごとき完全無欠の美。


――エリザベス・ルミナ・ド・クロムウェル

慈悲に輝く銀白鉱。

彼女の令嬢としての名通りの、本来の姿だった。

リズは、ほぅと一息を漏らすと、そっと自身の白く輝く両の手をみやり、そして、カイルへと、穏やかな微笑みを向けた。



5. エピローグ


宿屋の一角、使い込まれた木のテーブルの上には、うら若き女性の食事とは思えない光景が広がっていた。


「はいよ。いつもの特盛りだ」


威勢の良いおかみの声と共に並べられたのは、香ばしく焼き上げられた鶏肉のソテーに、脂の乗った分厚い豚肉のロースト。そして、指の太さほどもある自家製ベーコンの厚切り。熱い鉄板の上で脂がパチパチとはぜる音を響かせ、燻製の香ばしい匂いが部屋中に充満する。

皿の隙間が見えないほどに積み上げられた肉。

大食漢を自負する騎士のカイルでさえ、圧倒される量だった。

だが、そんな彼の目の前で、純白の美貌を取り戻したリズは、優雅な所作で次々と肉を平らげていく。

カイルが信じられないような目で見つめる。

「……っ。ごめんなさい……です。力を使った後は、どうしても、その……お腹が空いてしまって……」

リズが申し訳なさそうに眉を潜めるが、フォークは止まらずに分厚いベーコンを口に運んでしまう。

「す……すまない。いや、見ていて気持ちいいよ」

カイルは慈しむように見つめた。

その黄金色の瞳には、隠しきれない愛しさがあふれている。

リズはその目を見て戸惑いながらもベーコンを飲み込む。


「は……恥ずかしいので、あまり見ないでください……です……っ」

リズは真っ赤になって顔を伏せる。

かつては傷で隠されていた、その透き通るような赤色に、カイルは目を細めた。

「リズがおいしそうに食べているのを見るのは、俺の幸せなんだ」

「あ……ありがとう」

真っ直ぐな言葉に、リズが言葉を詰まらせてさらに赤くなったその時、足元から、弱々しい「ニャア」という鳴き声が聞こえた。

見れば、白黒の看板猫が、片足を引きずりながら痛々しげに近寄ってきている。


「猫ちゃん……その足、どうしたんです……?」

「あぁ。ボス猫と喧嘩したみたいでね。まぁ、そのうち治るだろうよ」

おかみの言葉が終わるより早く、リズは椅子から滑り落ちるようにして、猫の傍らに膝をついて、指を差し出す。

「大丈夫……ですよ。おいで」

猫が、白く柔らかな指先をすんすんと嗅ぐ。

リズはゆっくりと、猫の毛並みを優しく撫でて、そのまま、流れるように、猫の傷ついた足にそっと触れる。

「痛いの痛いの飛んでいけ……です」


リズの手のひらから禍々しい黒い塊が溢れ出した。

それは猫の傷を吸い出し、蛇のようにリズの足首へと這い上がっていく。

黒い泥が消えた時、猫の傷は消え、リズの真っ白な足首に、赤い新たな傷跡が刻まれていた。


「リズ……!お前、また……!せっかく綺麗になったのに、どうしてそんな!」

カイルが悲鳴のような声を上げ、彼女の肩を掴む。

だが、リズはきょとんとした顔で彼を見上げた。


「どうしたのですか?」

リズは自分の肌に刻まれた傷など気にせず、ただ、猫を抱いて年相応の少女らしい純粋な微笑みを浮かべていた。そのあまりにも残酷な優しさを前にして、カイルは深く溜息をつき、首を振った。

「……いや、いい。なんでもない」

カイルは呆れたように笑い、けれど今までで一番優しい手つきで、彼女の髪を撫でた。

「俺は、そんなリズが好きだったんだな」

「なっ……!何を、急に……っ!?」

不意にこぼれた愛の言葉に、リズの頬は咲き誇る薔薇のように爆発した。

その拍子に、猫が驚いて飛び出し、食堂の奥へと逃げていく。

慌てふためくリズと、それを見て今度こそ心から楽しそうに笑い声を上げるカイル。


5年間の凍りついた二人の時間が、ゆっくりと溶けていく光景だった。



短編版はここまで。好評でしたら連載版もアップしようと思ってます。

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