第8話:エンドロールで席を立つのは、映画への冒涜ではありませんか?
映画が始まった。
スクリーンに映し出されるのは、不気味な廃校。湿っぽい空気感。
ジャパニーズ・ホラー特有の、じっとりと肌にまとわりつくような静寂が劇場を包み込む。
……はずなのだが。
「……非合理的です」
隣から、小さな(しかし芯の通った)囁き声が聞こえる。
「なぜ電気も点けずに廃墟へ? 照明器具の持参は探索の基本です」
「しっ。静かに」
「それに、ミサキの行動。なぜ『不審な音がした』だけで単独行動をとるのですか? 集団で行動し、背後をクリアリングすべきです」
「ホラー映画あるあるなんだよ。突っ込んだら負けだ」
アリスは不満げにポップコーンを咀嚼していた。
どうやら彼女の「九条院フィルター」越しではない初めてのホラー映画は、ツッコミどころの宝庫に見えているらしい。
(こりゃ、怖がるどころかツッコミだけで終わりそうだな……)
と、俺がそう思ったのも、中盤までだった。
物語が進み、画面の中の犠牲者が増えていく。
派手な音で脅かすのではない。画面の端に何かが映り込む。日常の音が歪んで聞こえる。
そんな「生理的な恐怖」が演出され始めた頃。
ピタリ。
隣から聞こえていたポップコーンの咀嚼音が止まった。
(……アリス?)
横目でチラリと見る。
アリスは、バケツを抱えたまま固まっていた。
その瞳孔は開ききり、瞬きすら忘れてスクリーンを凝視している。
画面の中では、主人公が洗面所の鏡を覗き込んでいるシーン。
静寂。水滴の落ちる音。
そして、鏡の隅に――青白い女の顔が、ぬぅっと浮かび上がった。
「ッ……!!」
アリスが息を呑んだ。
次の瞬間。
ガシィッ!!
「ぐっ!?」
俺の右腕に、ものすごい万力が掛かった。
見ると、アリスが両手で俺の二の腕を鷲掴みにしている。爪が、爪が食い込んでいる!
「あ、アリス? 痛い、痛いから」
「ああっ……すみません」
そう言ってアリスはパッと手を離した。
だが、彼女の動揺は収まっていないようだ。
サクサクサクサク!
アリスの手が、倍速再生のような動きでポップコーンを口に運び始めた。
視線はスクリーンに釘付けのまま、右手だけが機械的に往復している。
「おい、ペース早えよ」
「……緊急時のエネルギー補給です。脳の処理落ちを防ぐため、糖分を……サクサク……」
「味わってないだろそれ」
「恐怖感を咀嚼音で相殺しています。……サクサクサク!」
恐怖シーンが続く。
アリスは画面から目を逸らさずに、震える声で言った。
「これは……ホログラムです。あるいはプロジェクションマッピングによる空間演出。質量を持たない映像データに過ぎません」
「いや、幽霊だから」
「非科学的です! あのような透過率の低い物体が、物理干渉を行うなど……ありえません!」
クライマックス。怨霊が画面いっぱいに迫ってきた瞬間。
アリスは「ひっ」と可愛らしい悲鳴を上げ、今度は俺の服の裾をギュッと掴んでいた。
ポップコーンのバケツは、いつの間にか空っぽになっていた。
◇ ◇ ◇
――本編終了。
アリスはふうっと静かに息を整えていた。
画面が暗転し、静かなピアノのイントロと共に、スタッフロールが流れ始めた。
ガタッ。
隣で席を立つ音がした。
アリスだ。彼女は鞄を手に取り、当然のように通路へ出ようとした。
「……? カケル、行きましょう」
「待て。座れ」
俺はアリスの服の裾を引っ張り、強制的に座席に戻した。
「な、何をするのですか?」
「まだ終わってない」
「終わりました。今、監督の名前が出ました。これ以降は、制作に関わった何千人もの名前が流れるだけの『データベース』の時間です」
アリスは心底不思議そうに首を傾げた。
「明るくなるまでが映画だ。座ってろ」
「非効率です。この数分間があれば、駅までの移動が可能になります。それに、黒い背景に白い文字が流れるだけの映像に、エンターテインメント性はありません」
(出たな、即退席派)
俺はため息をつき、小声で諭すように言った。
「いいかアリス。エンドロールっていうのはな、余韻を楽しむ時間なんだよ」
「余韻……?」
「さっきまでの物語を反芻して、気持ちを現実に切り替えるためのクールダウンだ。それに、最後にオマケ映像があるかもしれないだろ?」
「その確率は? 過去の統計では10%未満のはずですが」
「確率じゃねえよ! 『あるかもしれない』という期待値に賭けるんだよ!」
俺たちがヒソヒソと言い争っている間にも、画面には延々とスタッフの名前が流れていく。
アリスは渋々といった様子で座り直した。
だが、すぐに退屈したのか、ポケットからスマホを取り出そうとした。
画面がパッと光る。
「ばか! しまえ!」
俺は慌てて彼女の手を抑え込み、画面を下に向かせた。
「な、何ごとですか!?」
「上映中のスマホは厳禁だ! 光が漏れて他の客の迷惑になるだろ!」
「ですが、今は文字が流れているだけです」
「それでもだ! 暗闇での光は暴力なんだよ」
「……不自由ですね。情報の摂取を禁じられ、ただ文字を目で追うだけの時間……」
アリスは不満げにスクリーンを見上げた。
そして、流れる膨大なスタッフ名を見て、ふと呟いた。
「……試算します」
「え?」
「この人数……ざっと二千人。平均日当と制作期間を掛け合わせると……人件費だけで数億円が動いていますね。広告費を含めると損益分岐点は……」
「やめろ! 金勘定をするな!」
「カケル、この映画の興行収入は? 黒字化していますか?」
「知らん! 今は余韻に浸れ!」
こいつには情緒というものがないのか。
やがて、長いロールが終わり、館内が明るくなる。
結局、オマケ映像はなかった。
「……カケル。私の5分間を返還してください」
「うるさいな。この5分間も含めて映画代1300円なんだよ」
◇ ◇ ◇
ロビーに出ると、外はもうすっかり夜だった。
「で、どうだった? 初めてのホラー映画は」
「……不完全燃焼です」
アリスは空っぽのバケツをゴミ箱に捨てながら、不満げに言った。
「幽霊の行動原理が非論理的すぎます。次回はもっと、科学捜査班(CSI)が活躍するようなミステリーにしましょう」
「はいはい」
やはり、吊り橋効果なんて起きなかった。
俺たちは駅へ向かって歩き出す。
「ですが……」
「ん?」
「エンドロールの件については、一理あるかもしれません」
アリスがぽつりと呟いた。
「あの暗闇の中で、流れる文字を目で追いながら……隣にいるカケルの呼吸音を聞いていました」
「……」
「無為な時間だと思っていましたが、不思議と……心拍数が安定しました。サンスクリット語のお経を唱えている時に近い感覚です」
「お経と一緒にすんな」
アリスは少しだけ笑った。
新しい研究結果に満足した学者のような顔だった。
「カケル。検証が必要です」
「何の?」
「余韻の効能についてです。……もう少し付き合ってください。感想戦を行いましょう」
「それなら『ガストリア』に行くか」
「ええ。ファミレス……でしたっけ? その概念も、まだ履修していませんので」
結局、俺たちは価値観のすり合わせができないまま、次の戦場へと向かうことになった。
分かり合えないからこそ、議論は尽きない。
まあ、こういう関係も悪くないのかもしれない。
次回 第9話:ドリンクバーの元を取ろうとして、お腹を壊すのは本末転倒です




