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概念少女の庶民学(コモン・センス)~「概念は知っています」が口癖の箱入り令嬢と、牛丼の食べ方について議論する~  作者: 上山マヤ
一年生編

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8/50

第8話:エンドロールで席を立つのは、映画への冒涜ではありませんか?

 映画が始まった。

 スクリーンに映し出されるのは、不気味な廃校。湿っぽい空気感。

 ジャパニーズ・ホラー特有の、じっとりと肌にまとわりつくような静寂が劇場を包み込む。


 ……はずなのだが。


「……非合理的です」


 隣から、小さな(しかし芯の通った)囁き声が聞こえる。


「なぜ電気も点けずに廃墟へ? 照明器具ライトの持参は探索の基本です」

「しっ。静かに」

「それに、ミサキの行動。なぜ『不審な音がした』だけで単独行動をとるのですか? 集団で行動し、背後をクリアリングすべきです」

「ホラー映画あるあるなんだよ。突っ込んだら負けだ」


 アリスは不満げにポップコーンを咀嚼していた。

 どうやら彼女の「九条院フィルター」越しではない初めてのホラー映画は、ツッコミどころの宝庫に見えているらしい。


(こりゃ、怖がるどころかツッコミだけで終わりそうだな……)


 と、俺がそう思ったのも、中盤までだった。


 物語が進み、画面の中の犠牲者が増えていく。

 派手な音で脅かすのではない。画面の端に何かが映り込む。日常の音が歪んで聞こえる。

 そんな「生理的な恐怖」が演出され始めた頃。


 ピタリ。

 隣から聞こえていたポップコーンの咀嚼音が止まった。


(……アリス?)


 横目でチラリと見る。

 アリスは、バケツを抱えたまま固まっていた。

 その瞳孔は開ききり、瞬きすら忘れてスクリーンを凝視している。


 画面の中では、主人公が洗面所の鏡を覗き込んでいるシーン。

 静寂。水滴の落ちる音。

 そして、鏡の隅に――青白い女の顔が、ぬぅっと浮かび上がった。


「ッ……!!」


 アリスが息を呑んだ。

 次の瞬間。


 ガシィッ!!


「ぐっ!?」


 俺の右腕に、ものすごい万力が掛かった。

 見ると、アリスが両手で俺の二の腕を鷲掴みにしている。爪が、爪が食い込んでいる!


「あ、アリス? 痛い、痛いから」

「ああっ……すみません」


 そう言ってアリスはパッと手を離した。

 だが、彼女の動揺は収まっていないようだ。


 サクサクサクサク!


 アリスの手が、倍速再生のような動きでポップコーンを口に運び始めた。

 視線はスクリーンに釘付けのまま、右手だけが機械的に往復している。


「おい、ペース早えよ」

「……緊急時のエネルギー補給です。脳の処理落ちを防ぐため、糖分を……サクサク……」

「味わってないだろそれ」

恐怖感ストレスを咀嚼音で相殺キャンセルしています。……サクサクサク!」


 恐怖シーンが続く。

 アリスは画面から目を逸らさずに、震える声で言った。


「これは……ホログラムです。あるいはプロジェクションマッピングによる空間演出。質量を持たない映像データに過ぎません」

「いや、幽霊だから」

「非科学的です! あのような透過率の低い物体が、物理干渉を行うなど……ありえません!」


 クライマックス。怨霊が画面いっぱいに迫ってきた瞬間。

 アリスは「ひっ」と可愛らしい悲鳴を上げ、今度は俺の服の裾をギュッと掴んでいた。

 ポップコーンのバケツは、いつの間にか空っぽになっていた。


 ◇ ◇ ◇


 ――本編終了。

 アリスはふうっと静かに息を整えていた。


 画面が暗転し、静かなピアノのイントロと共に、スタッフロールが流れ始めた。


 ガタッ。


 隣で席を立つ音がした。

 アリスだ。彼女は鞄を手に取り、当然のように通路へ出ようとした。


「……? カケル、行きましょう」

「待て。座れ」


 俺はアリスの服の裾を引っ張り、強制的に座席に戻した。


「な、何をするのですか?」

「まだ終わってない」

「終わりました。今、監督ディレクターの名前が出ました。これ以降は、制作に関わった何千人もの名前が流れるだけの『データベース』の時間です」


 アリスは心底不思議そうに首を傾げた。


「明るくなるまでが映画だ。座ってろ」

「非効率です。この数分間があれば、駅までの移動が可能になります。それに、黒い背景に白い文字が流れるだけの映像に、エンターテインメント性はありません」


(出たな、即退席派)


 俺はため息をつき、小声で諭すように言った。


「いいかアリス。エンドロールっていうのはな、余韻を楽しむ時間なんだよ」

「余韻……?」

「さっきまでの物語を反芻(はんすう)して、気持ちを現実に切り替えるためのクールダウンだ。それに、最後にオマケ映像があるかもしれないだろ?」

「その確率は? 過去の統計では10%未満のはずですが」

「確率じゃねえよ! 『あるかもしれない』という期待値に賭けるんだよ!」


 俺たちがヒソヒソと言い争っている間にも、画面には延々とスタッフの名前が流れていく。

 アリスは渋々といった様子で座り直した。


 だが、すぐに退屈したのか、ポケットからスマホを取り出そうとした。

 画面がパッと光る。


「ばか! しまえ!」


 俺は慌てて彼女の手を抑え込み、画面を下に向かせた。


「な、何ごとですか!?」

「上映中のスマホは厳禁だ! 光が漏れて他の客の迷惑になるだろ!」

「ですが、今は文字が流れているだけです」

「それでもだ! 暗闇での光は暴力なんだよ」

「……不自由ですね。情報の摂取を禁じられ、ただ文字を目で追うだけの時間……」


 アリスは不満げにスクリーンを見上げた。

 そして、流れる膨大なスタッフ名を見て、ふと呟いた。


「……試算します」

「え?」

「この人数……ざっと二千人。平均日当と制作期間を掛け合わせると……人件費だけで数億円が動いていますね。広告費を含めると損益分岐点は……」

「やめろ! 金勘定をするな!」

「カケル、この映画の興行収入は? 黒字化していますか?」

「知らん! 今は余韻に浸れ!」


 こいつには情緒というものがないのか。

 

 やがて、長いロールが終わり、館内が明るくなる。

 結局、オマケ映像はなかった。


「……カケル。私の5分間を返還してください」

「うるさいな。この5分間も含めて映画代1300円なんだよ」


 ◇ ◇ ◇


 ロビーに出ると、外はもうすっかり夜だった。


「で、どうだった? 初めてのホラー映画は」

「……不完全燃焼です」


 アリスは空っぽのバケツをゴミ箱に捨てながら、不満げに言った。


「幽霊の行動原理が非論理的すぎます。次回はもっと、科学捜査班(CSI)が活躍するようなミステリーにしましょう」

「はいはい」


 やはり、吊り橋効果なんて起きなかった。

 俺たちは駅へ向かって歩き出す。


「ですが……」

「ん?」

「エンドロールの件については、一理あるかもしれません」


 アリスがぽつりと呟いた。


「あの暗闇の中で、流れる文字を目で追いながら……隣にいるカケルの呼吸音を聞いていました」

「……」

「無為な時間だと思っていましたが、不思議と……心拍数が安定しました。サンスクリット語のお経を唱えている時に近い感覚です」

「お経と一緒にすんな」


 アリスは少しだけ笑った。

 新しい研究結果に満足した学者のような顔だった。


「カケル。検証が必要です」

「何の?」

「余韻の効能についてです。……もう少し付き合ってください。感想戦レビューを行いましょう」

「それなら『ガストリア』に行くか」

「ええ。ファミレス……でしたっけ? その概念も、まだ履修していませんので」


 結局、俺たちは価値観のすり合わせができないまま、次の戦場ファミレスへと向かうことになった。

 

 分かり合えないからこそ、議論は尽きない。

 まあ、こういう関係も悪くないのかもしれない。


次回 第9話:ドリンクバーの元を取ろうとして、お腹を壊すのは本末転倒です

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