第5話:初心者に『待ちガイル』をするのは、国際条約違反ではないのですか?
アパートの前まで来て、俺は足を止めた。
築三十年、木造二階建て。階段の塗装は剥げ、郵便受けは凹んでいる。
ここが佐藤家の城だ。
「……到着ですね。ここがカケルの秘密基地ですか」
「ただのボロアパートだよ」
俺はポケットから鍵を取り出し――そこで、手が止まった。
(待てよ。本当にいいのか?)
勢いで連れてきてしまったが、冷静に考えろ。
相手は九条院家のご令嬢。対する俺は、しがない貧乏学生。
そんな男と密室に二人きりということになる。
(いや、やましい気持ちはない。ないが……)
社会的に、あるいは倫理的に、これはアウトなんじゃないか?
もし九条院家の黒服に見つかったら、東京湾に沈められるのでは?
「カケル? どうしました? セキュリティ解除に網膜認証でも必要ですか?」
「いや……あー、九条院。一応、確認だ」
俺は振り返り、九条院の目を真っ直ぐに見た。
「俺の家は狭いし、汚いし、お前の家みたいな高級なもてなしはできない。それに……今日は母さんが夜勤でいないから、男と二人きりになる」
「はい」
「『はい』じゃなくて。……その、お前の家の人的に、それは大丈夫なのか?」
俺が懸命に遠回しな警告をすると、九条院はきょとんとして、それから少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「カケルは、紳士ですね」
「は?」
「私の身を案じてくれているのでしょう? ですが、問題ありません。私は貴方を信頼していますし、それに――」
彼女は買ってきたばかりのコントローラーを掲げた。
「今は一刻も早く、貴方を格闘ゲームで叩きのめしたい気分なのです。入室許可を」
「……へいへい」
そこまで言われて断るのも野暮だ。
俺は覚悟を決めて、錆びついたドアを開けた。
◇ ◇ ◇
「お邪魔いたします……む?」
玄関で靴を脱ぎ(彼女のローファーは俺のスニーカーの三倍くらいの値段がしそうだった)、九条院が部屋に足を踏み入れる。
六畳一間の和室。
部屋の真ん中にはコタツ兼ちゃぶ台。壁際にはあまり薄くないテレビとゲーム機。
キッチン、居間、寝室がすべて一緒くたになった空間だ。
九条院は部屋の中央に立ち、キョロキョロと周囲を見渡した。
「……狭い」
「悪かったな」
「いいえ、違います。驚いているのです」
彼女はコタツの前に座り、手を伸ばしてテレビのリモコンに触れ、振り返って後ろの冷蔵庫を指差した。
「座ったまま、全ての重要設備に手が届く……。無駄な動線が極限まで省略されています。まるで、戦闘機のコックピットみたいですね」
「……」
(こいつは思った事をそのまま口にする。悪気はないんだろうな)
純粋な称賛の眼差しだった。
この狭さが、彼女にとっては「機能美」に見えるらしい。
「カケル。あそこの扉には何が?」
「おっと」
九条院が押し入れの襖に手を掛けようとした瞬間、俺はスライディングで阻止した。
「この部屋の押し入れは絶対に開けてはいけない!」
「なぜです?」
「法律で決まっているんだ」
「法律……?」
九条院は眉をひそめ、学生カバンからスマホを取り出した。
「六法全書アプリで検索します。民法? それとも刑法ですか? 『他人の家の押し入れを開放してはならない』という条文が……」
「今のは嘘! 冗談です! そのくらい開けちゃダメってこと!」
「比喩表現ですか。紛らわしい……」
彼女は不満げにスマホをしまった。
危ない。そこには万年床の布団とか、思春期の男子特有の隠しておきたい雑誌とかが突っ込んである。黒服に見られたら即消される案件だ。
◇ ◇ ◇
「適当に座っててくれ。お茶淹れるから」
俺はキッチンで湯を沸かし、お茶を作ってマグカップに注ぐ。
「どうぞ。麦茶だけど」
「いただきます」
一口飲んでから九条院は再び口を開く。
「カケルの家族構成は?」
「今日は夜勤で居ないけど母さんと二人暮らしだ。……親父が亡くなってから、母さんが一人で働いてるから忙しいんだ」
俺は自分の分の麦茶を飲みながら、自然と口にしていた。
別に同情を買いたいわけじゃない。ただ、俺の家が「貧乏」である理由くらいは、伝えておきたかった。
借金のことまでは、さすがに隠したが。
「……カケルは、家事をこなし、こうして自立して生活しているのですね」
「いや、貧乏なだけだよ」
「尊敬します。私には、お茶を淹れることすらできませんから」
「九条院には九条院のできることがあるだろ?」
彼女はマグカップを両手で包み、真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「九条院……九条院……」
(なんだ? 急に自分の名を連呼して)
「どうした?」
「私のことはアリス、と。家の名前で呼ばないで下さい」
彼女は湯気の向こうで、少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「家の名前で呼ばれるのって、嫌なものなのか?」
俺の感覚では全く理解できなくて、つい聞き返してしまった。
こういう家柄だと家名がどうたらこうたらってあるのか?
「……親しい方は、愛称やファーストネームで呼ぶものだと、文献にありました」
「えっ」
(親しいっ!?)
その言葉に、心臓が跳ねた。
彼女の碧眼が、探るように俺を見ている。
まあ、他意はないんだろうな。
「友達」としての意味だろう。深く考えるのは止めておこう。
(愛称……あだ名か)
「その、あ、九条院……は愛称ってあったのか?」
「昔、『あーちゃん』と呼んでくれる方が居ましたが……」
「……」
(さすがに『あーちゃん』呼びはハードル高ぇよ!)
俺が絶句していると、九条院はくすりと笑った。
「……アリスで構いません」
「お、おう。わかったよ、アリス」
名前を呼ぶだけで、妙に口の中が熱くなる。
俺は誤魔化すように、ゲーム機の電源を入れた。
「さあ、話は終わりだ! ゲームやるぞ!」
「はい! 望むところです!」
画面に『ファイターファイターズV』のロゴが表示される。
アリスはコントローラーを握りしめ、画面を食い入るように見つめた。
その横顔は、教室で見せる澄ました顔よりも、ずっと年相応で、可愛らしかった。
……だからこそ。
教えてやらねばなるまい――。
勝負の世界の厳しさを。
◇ ◇ ◇
――数分後。
「何故です! カケル、貴方のキャラが動いていませんよ!」
「ふっふっふ……」
「なぜしゃがんだまま微動だにしないのですか? コントローラーの故障では?」
「いいや、これは『タメ』だ」
「タメ……?」
アリスが隙だらけのジャンプ攻撃を仕掛けてきた瞬間。
俺の親指が動いた。
「サマーキーーック!!」
「きゃあぁぁっ!?」
対空成功。アリスのキャラが吹き飛ぶ。
これぞ、格ゲーの極意にして初心者殺しの戦法、『待ちガイル』である。
「くっ……! 卑怯です! 自分から攻めずに相手の失策を待つなど、騎士道に反します!」
「ここは戦場だ! 勝ったやつが正義なんだよ!」
夕日が差し込む六畳一間。
俺たちの叫び声と、ボタンを連打する音が響き渡っていた。
次回 第6話:しゃがんで待つだけの男に、私が負けるはずありません




