第47話:プールの授業。『自由形』とは、溺れないための生存泳法ですか?
8月。夏休みも中盤に差し掛かった頃。
連日の猛暑は、アスファルトを溶かさんばかりの勢いで続いていた。
俺は、冷房の効いた自室のベッドでダラダラと天井を見上げていた。
バイトがない日は、極力動かずに体力を温存する。それが貧乏人の夏の過ごし方だ。
「……あー、暑い」
ふと、机の上に放置してあった封筒が目に入った。
夏休み前に学校で配布された、『市民プール』の無料招待券だ。
銀杏高校にはプールがないため、その代替措置として配られたものだが、男一人で行くのも虚しい。
(アリスは……今頃、海外の別荘とかか?)
俺はスマホを取り出し、LIMEのトーク画面を開いた。
『生きてるか? 暑すぎて溶けそうなんだけど』
送信して数秒。即座に「既読」がついた。
『生存報告。こちらの室温は24度、湿度50%に保たれています。快適です』
相変わらずの即レスだ。
そして、なぜか『劇画調の執事がお辞儀をしているスタンプ』が送られてきた。どこで買ったんだそれ。
『いいご身分だな。今年はモルディブとか行かないのか?』
『父の事業の関係で、今年は日本に留め置かれています。遺憾です』
日本にいるのか。
なら、誘ってみてもいいかもしれない。
俺は手元のチケットを写真に撮り、送信した。
『これ、まだ持ってる?』
『学校から支給された「市民プール利用権」ですね。重要書類として保管してあります』
『期限切れそうなんで行こうと思うんだけど、どう?』
送信してから、少しドキドキする。
お嬢様が市民プールなんて来るだろうか。「不衛生です」と却下されるかもしれない。
数秒後、長文の吹き出しが返ってきた。
『プール……。興味深い提案です。日本の市民プールという人口密度の高い水域における、庶民の生態系と冷却システムの効率性を視察する良い機会と判断します。参加を希望します』
視察かよ。まあ、OKってことだ。
ふと、素朴な疑問が湧いた。
『ていうか、アリスって泳げるのか?』
カナヅチだったら、市民プールの深さは危険かもしれない。
しかし、その心配は杞憂だったようだ。
アリスから、怒涛の長文が送られてきた。
『愚問です。九条院家には古くから伝わる「水泳術」があります。水泳とはスポーツではなく、水難事故や海戦時における漂流から生還するための「生存技術」です。当家では幼少期より、着衣水泳および荒天時の遠泳が義務付けられていますので、遊泳能力に問題はありません』
(……3回に1回くらい長文で返してくるよな。水泳術ってなんだよ。初めて聞いたわ)
とりあえず泳げることは分かった。
俺は『じゃあ明日の午後、現地集合で』と送り、スマホを置いた。
直後、アリスから『マッチョなアザラシがサムズアップしているスタンプ』が送られてきた。
あのガチャガチャのやつだ。スタンプまで買ったのか。
◇ ◇ ◇
翌日。
市民プールは、予想通りの激混みだった。
芋洗い状態の流れるプール。響き渡る子供たちの奇声。そして監視員の笛の音。
「……カケル。ここは人間スープの調理場ですか?」
「表現が怖いよ! 市民の憩いの場だ」
入口で合流したアリスは、サングラスに日傘という完璧な淑女スタイルだったが、その表情は人の多さに若干引いていた。
更衣室で着替え、プールサイドで待ち合わせる。
俺が準備運動をしていると、女子更衣室からアリスが出てきた。
「お待たせしました」
その姿に、俺は思わず息を呑んだ。
アリスの水着は、パンツタイプのスクール水着だった。
「……どうしました? 機能性を重視して選んだのですが」
「い、いや。似合ってるよ。すごく」
「そうですか。耐塩素性の高い生地と、水の抵抗を軽減するカッティングを採用した競技用モデルです」
(学校指定のやつに見えて、やっぱり特別性なんだな)
アリスは屈伸運動を始めた。
その動き一つ一つが洗練されており、周囲の男子の視線を集めていることに、本人は気づいていない。
「よし、入るか。まずは流れるプールで体を慣らそうぜ」
「了解。水流に身を任せ、エコノミーな移動を行います」
俺たちは浮き輪(俺が持参した)につかまり、プカプカと流された。
水はぬるいが、屋外の風が心地よい。
「……人が多いですね」
「夏休みだからな」
「不規則な水流と、他者との衝突リスク……。常に聴覚と目視で周囲を警戒する必要があります」
「もっとリラックスしろよ。……ほら、あっちが競泳用プールだ。LIMEで言ってた『水泳術』とやらを見せてくれよ」
俺が指差すと、アリスは「実技演習を行います」と言って、競泳エリアへと向かった。
俺も慌てて後を追う。
コースの端に立ち、アリスが入水する。
そして、泳ぎ出した。
「……えっ?」
俺は目を疑った。
アリスは、クロールでも平泳ぎでもなかった。
体を斜めにし、片手だけを水面から出して優雅に水をかいている。顔はずっと水面上にあり、髪すら濡らしていない。
音もなく、波も立てず、スルスルと水面を滑るように進んでいく。
「な、なんだあの泳ぎ方は……」
「……」
25メートルを泳ぎ切り、アリスが涼しい顔で戻ってきた。
「どうでしたか? 『のし泳ぎ』と呼ばれる古式泳法です」
「すげえけど! 初めて見たわ! なんでそんな泳ぎ方なんだ?」
「顔を水面に出し続けることで、周囲の状況把握を維持できます。また、片手は常に空けておくことで、武器の使用や物資の運搬が可能になります」
「戦場かよ! ここは平和な市民プールだぞ!」
「有事の際、カケルが溺れても私が牽引搬送できますよ?」
「頼もしいなオイ……」
どうやら彼女の「泳げる」は、オリンピック選手とはベクトルが違う「海兵隊」レベルの話だったらしい。
◇ ◇ ◇
「さて、メインイベントだ」
俺たちは、プールの中央にそびえ立つ『ウォータースライダー』の前に立った。
高さ10メートルほどの塔から、螺旋状のチューブが伸びている。
行列に並び、ようやく順番が回ってきた。
「……高いですね」
「ビビったか?」
「いいえ。位置エネルギーの算出を行っていました。推定質量と高さから、着水時の速度は時速30キロに達すると予測されます」
「理屈っぽい悲鳴だな……」
係員のお兄さんが「はい、どうぞー」と合図をする。
まずは俺が滑る。
水しぶきを上げながら滑走し、ザブーン! とプールに着水した。
鼻に水が入ったが、爽快だ。
水面から顔を出し、アリスを待つ。
彼女がスタート地点に座り、胸の前で手をクロスさせた。
まるで棺桶に入る吸血鬼のようなポーズだ。
「姿勢制御、よし。……発進!」
アリスが滑り出した。
チューブの中を、無表情のまま滑り落ちてくる。
「……摩擦係数、良好。カーブにおけるG、想定内」
滑りながらブツブツ言っているのが聞こえる。
そして、最後の急降下。
「……ッ!」
アリスの目がカッと見開かれた。
想定以上の加速だったのか、それとも水しぶきに驚いたのか。
ザッブーーーン!!
盛大な水柱を上げて、アリスが着水した。
俺は慌てて駆け寄る。
「アリス! 大丈夫か!?」
水面から、アリスがプハッ! と顔を出した。
完璧だった髪は濡れて張り付き、顔からは水が滴っている。
いつもの冷静沈着な仮面が剥がれ、年相応の少女の顔になっていた。
「……カケル」
「お、おう」
「……計算外でした」
アリスは濡れた前髪をかき上げ、目を輝かせた。
「遠心力による内臓の浮遊感……そして視界がホワイトアウトするほどの水圧。……これは、データでは得られない『スリル』ですね」
「……ああ、楽しかったのか」
「はい。……もう一回、検証が必要です。再エントリーを申請します!」
「おっしゃ」
それから俺たちは、子供に混じって何度もスライダーを滑り倒した。
モルディブの海がどんなものかは知らないが、少なくとも今日の市民プールは、世界で一番楽しい場所だったと思う。
◇ ◇ ◇
夕方。
俺たちは更衣室を出てベンチに座り、夕暮れのプールを眺める。
「……今日はありがとうな、付き合ってくれて」
「お礼を言うのは私の方です。日本のプール文化、そしてスライダーの物理的快感……有意義な視察でした」
「モルディブの海は、透明度が高く、熱帯魚が泳いでいます。とても静かで、美しい場所です」
「そっか。やっぱそっちの方が良かったか?」
「いいえ」
アリスは首を横に振った。
「あそこには、スライダーも、……一緒に馬鹿騒ぎしてくれるカケルもいませんから」
彼女は少しだけ顔を赤らめ、視線を逸らした。
「今年の夏は……日本にいて、正解でした」
「……そっか」
俺も照れくさくなって、アイスをかじった。
頭がキーンとする。
でも、その痛みさえも、なんだか心地よかった。
夏休みはまだ続く。
俺たちの「自由形」な毎日は、まだまだ終わらない。
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