第43話:期末テスト『一夜漬け』は、記憶の定着率を無視した暴挙です
7月上旬。
教室の窓から差し込む日差しが、本格的な夏の到来を告げていた。
だが、俺たち銀杏高校の生徒にとって、夏休みを勝ち取るためには越えなければならない巨大な壁がある。
『期末テスト』だ。
試験前日の放課後。
俺は教科書の山を前に、絶望的な声を上げた。
「……やべえ。日本史と物理が手つかずだ」
バイトのシフトを入れすぎたツケが回ってきた。
範囲が広すぎる。真面目にやっていたら朝までかかっても終わらないだろう。
「こうなったら……今夜は『一夜漬け』で乗り切るしかねえ!」
「……一夜漬け?」
隣の席で涼しい顔をして読書をしていたアリスが、不思議そうに首を傾げた。
「概念は知っています。野菜を塩分で浸透圧処理し、保存性を高める調理法ですね。しかし、なぜテスト前に?」
「違う! 寝ずに勉強して、脳みそに無理やり知識を詰め込むことだ!」
「……愚かです」
アリスは本を閉じ、呆れ果てた溜息をついた。
「人間の脳は睡眠中に記憶を整理し、海馬から大脳皮質へ定着させます。睡眠を削る学習は、保存ボタンを押さずにデータを上書きし続けるようなものです。非効率の極みです」
「そうかもしれないけど! 今の俺には時間がないんだ!」
「はぁ……。見ていられませんね」
アリスはスマホを取り出した。
「仕方ありません。今夜、監視を行います」
「監視?」
「貴方が寝落ちしないよう、ビデオ通話で接続状態を維持します。分からない箇所があれば、私が解説しましょう」
「マジで!? 助かる!」
持つべきものは、天才的な頭脳を持つお節介なお嬢様だ。
こうして、俺たちの深夜の勉強会が幕を開けた。
◇ ◇ ◇
夜22時。
俺は自室の机にスマホをセットし、LIMEのビデオ通話を繋いだ。
画面の向こうには、自室のデスクに座るアリスの姿があった。
いつもの制服ではない。リラックスしたルームウェアに、髪を下ろした姿だ。
その無防備な姿に、少しだけドキッとする。
『……聞こえますか、カケル』
「おう、バッチリだ」
『では、勉強を開始します。……その前に』
画面越しのアリスが、俺の手元を見て眉をひそめた。
『その机にある、極彩色の液体は何ですか? バイオハザードのマークが見えますが』
「これか? 俺のガソリン、『エナジー・ブースト』だ」
俺はプルタブを開けた。プシュッ、と炭酸の音が響く。
「このエナジードリンクで脳を強制起動させるんだ。これを飲むとやれる気がする」
『……毒々しい色です。合成着色料と糖分の過剰摂取。心臓への負担が懸念されます』
アリスは自身のマグカップを優雅に持ち上げた。
『私はハーブティーです。リラックス効果を高め、脳のα波を引き出します』
「そっちは優雅だな、オイ」
俺はエナドリを流し込み、日本史の教科書を開いた。
◇ ◇ ◇
一時間後。
集中力が切れた。
「……あー、疲れた。ちょっと休憩しようぜ」
「早すぎます。まだ60分しか経過していません」
「人間の集中力の限界は50分くらいらしいぞ。……息抜きが必要だ」
とりあえず話題をそらすために別の話題を提供する。
「そういえば、映画とかアニメって観たの?」
「はい。カケルが作成したリスト、非常に興味深いデータでした」
アリスは少し嬉しそうに頷いた。
アリスこの数ヶ月、俺がリストに出した作品をちょいちょい観ていたようだった。
俺がリストアップした作品の中には、過激な暴力描写や恋愛表現のために『九条院フィルター』に弾かれてアリスが見られなかったものもあるが、結構な確率で視聴できていたようだ。
「楽しめなかったら無理して観なくていい、って言ったけど、どうだった?」
「有意義でした。これは理解不能、と思った作品もありましたが……意外な作品が私の感性に合致したり、興味深い発見の連続でした」
アリスのストライクゾーンを見極める作業は、俺にとっても意外と楽しかった。
こいつは恋愛モノには「非合理的」と辛辣だが、複雑な伏線や、極限状態の人間ドラマには食いつく傾向がある。
「で、一番良かったのはどれだ?」
「そうですね……」
アリスは少し考え込み、答えた。
「アニメ部門では、やはり『デーバス』の劇場版ですね。あれだけの興行収入を叩き出せたのには納得がいきます。作画コストと脚本の密度が比例していました」
「だよな。じゃあ、映画部門での1位は?」
「……『無人島でウェイ』ですね」
俺は思わず手を叩いた。
「おっ! マジか!」
『無人島でウェイ』。
結構古い名作映画の一つで、俺が大好きな作品だ。
不慮の飛行機事故でたった一人、無人島に流れ着いた男が、孤独な生活を続け、脱出を試みようとする物語。
派手なアクションはないが、生きることへの執着を描いた傑作だ。
「あれが刺さったか。渋いとこ突くなぁ」
「あの映画は、サバイバル技術の実践マニュアルとして優秀であると同時に……極限状態における精神状態を見事に描写していました」
アリスは画面の向こうで、熱っぽく語り出した。
「火を起こすことの困難さ。食料確保の不確実性。そして何より……『孤独』という毒が、いかに人間の精神を蝕むか」
「そうなんだよな。主人公がヤシの実に名付けて話しかけるシーンとか、泣けるよな」
「はい。一見すると狂気ですが、あれは社会的動物である人間が自我を保つための、合理的な防衛本能です」
アリスは遠くを見るような目をした。
「広い屋敷に一人でいると……ふと、あの主人公の気持ちが理解できる瞬間があります。物理的な無人島でなくとも、人は孤独になり得るのだと」
「……アリス」
少ししんみりした空気になる。
広い屋敷で、完璧な教育を受けて育った彼女。
その孤独は、俺には想像もつかないものなのかもしれない。
「ま、でも最後は脱出できたしな」
「ええ。あのラストシーンの余韻も含めて、名作と評価します」
「俺もさ、いざ自分がそうなったらどうするか、みたいな妄想はめっちゃやったわ。まず火起こしから練習しようかな、とか」
「カケルなら、あの島でも逞しく生き延びそうです」
結局、勉強そっちのけで映画の話に花が咲いてしまった。
気づけば、時計の針は深夜2時を回っている。
「……はっ! やばっ話しすぎた!」
「タイムロスです。予定していた物理の範囲が終わっていません」
俺は慌てて教科書に戻ったが、エナジードリンクの効果が切れたのか、急激な眠気が襲ってきた。
「……なぁアリス。平安貴族もエナドリ飲んで蹴鞠してたのかな……」
「していません。……カケル、言動が支離滅裂です。意識レベルが低下しています」
画面の向こうのアリスも、少し目をこすっている。
「これ以上は明日のテストに響きます。ノートの写真を送るのでそこだけでも明日の朝に確認しておいてください」
「うぅ……わかった」
「おやすみなさい、カケル」
「ああ、おやすみ……」
◇ ◇ ◇
翌日。
テスト終了のチャイムが鳴り響く。
「終わったぁぁぁ……!」
俺は机に崩れ落ちた。
やりきった。
俺の脳みそは、昨晩、そして今朝に詰め込んだ知識をすべて吐き出した。
「どうでしたか、カケル」
アリスが声をかけてきた。
彼女は涼しい顔をしている。もちろん全教科満点の手応えなのだろう。
「……なんとかって感じかな。アリスのおかげで、物理の公式も覚えられたから赤点はギリギリ回避できたかも」
「ギリギリですか。昨夜は脱線しすぎましたね」
それでもアリスは満足げに頷いた。
あの後、俺はすぐに寝てしまったが、彼女はノートの重要部分だけを写真に撮って俺のスマホに送ってくれていたのだ。
感謝してもしきれない。
「じゃあカケル、確認のために一問。物理の最後の問題、運動エネルギーの保存則を使った式は?」
「えっ?」
俺は瞬きをした。
真っ白な黒板のような脳内。
「……なんだっけ?」
「はい?」
「いや、なんか……テスト終わった瞬間に、全部抜けたわ。頭ん中空っぽだ」
きれいさっぱり忘れていた。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。テスト過ぎれば公式を忘れる。
「……信じられません」
アリスが愕然としていた。
「揮発性メモリですか貴方の脳は! 電源が落ちた瞬間にデータが消去されるなんて! 長期記憶への定着に失敗しています!」
「まあまあ、赤点は回避できた(願望)んだからいいだろ」
「よくありません! 知識は積み重ねです! これでは次回のテストでまた同じ苦労を……」
アリスの嘆き声が教室に響く。
俺は「あはは」と笑って誤魔化した。
一夜漬けの代償は大きい。
だがまあ、あの深夜の映画談義の楽しさと、画面越しのアリスの眠そうな顔だけは、しっかり俺の記憶に保存されていた。
次回 第44話:かき氷のシロップは、全て同じ味だという都市伝説を知っていますか?




