第42話:中華チェーンの『魔法の粉』は、合法的な調味料ですか?
体育祭の興奮も冷めやらぬ、6月の放課後。
部活帰りの生徒たちで賑わう駅前の大通りに、食欲を刺激する強烈な匂いが漂っていた。
ニンニク、ごま油、そして中華鍋で焦げる醤油の香り。
俺とアリスは、赤と白の派手な看板の前に立っていた。
『中華レストラン 餃子キングダム』。通称「餃キン」。
日本で最も有名な中華チェーンの一つだ。
「……カケル。厨房からの排気ダクトより、高濃度の脂質とニンニク臭が噴出しています」
「いい匂いだろ? 今日はここで晩飯だ」
「中華……。北京ダックやフカヒレの姿煮などですか?」
「そんなもんねえよ。もっと野蛮で、もっと美味いもんだ」
自動ドアをくぐると、店内は戦場のような活気に包まれていた。
カンカンカン! と中華鍋を振る音。
店員の元気な声が飛び交う。
そして、床は長年の油で少しだけペタペタしている。
「……床の摩擦係数が異常に高いです。粘着質です」
「それが美味い中華屋の証だ。行くぞ」
俺たちはボックス席に案内された。
◇ ◇ ◇
席に着き、メニューを広げる。
そこには、写真付きで大量の料理が掲載されていた。
麺類、飯類、一品料理、点心、セットメニュー、さらにこの店舗限定のオリジナルセット……。
「……情報量が多すぎます」
アリスが目を回していた。
「メインとサイドの組み合わせが無限大です。これらを最適化して注文するなど、スパコン京並みの処理能力が必要です」
「難しく考えるな。食いたいもんを頼めばいいんだよ。あと、ここはタッチパネルじゃないぞ」
「えっ?」
「『ピンポン』を押して、店員さんに口頭で伝えるんだ」
最近は回転寿司もファミレスもタブレット注文が主流だ。
だが、餃キンはあえて「人」が注文を取るスタイルを貫いている(店舗によるが)。
「……アナログですね。音声認識エラーのリスクがありますが、ヒューマン・タッチな温かみがあるとも言えます」
アリスは少し緊張しながら呼び出しボタンを押し、やってきた店員さんに注文を告げた。
何度もボタンを押しそうな予感がしたので、先に注意するとアリスは口を尖らせていた。
◇ ◇ ◇
最初に運ばれてきたのは、この店の代名詞。
『焼き餃子』だ。
完璧な焼き色がついた6個の餃子が、湯気を上げている。
「……これが、庶民のキング・オブ・点心」
「本場中国じゃ水餃子が主流らしいけどな。日本の『焼き餃子』は、白米に合うように独自進化した最強のおかずだ」
俺は小皿を取り、タレの調合を始めた。
ここからが、餃子道の最初の分岐点だ。
「アリス、タレはどうする?」
「……概念は知っています」
「酢、醤油、ラー油。これらを混合し、浸透圧を利用して味を染み込ませるのですよね?」
「さすがに知ってたか」
「データによれば、醤油5:酢4:ラー油1が黄金比とされています」
「俺は『酢多め派』だ。酢7:醤油3、そこにラー油とコショウを大量投入する」
「酸性が強すぎませんか? 味覚センサーが麻痺しますよ」
アリスは教科書通りに醤油多めのタレを作り、俺は酢で白っぽくなったタレを作った。
いざ、実食。
カリッ。ジュワッ。
「……!」
アリスが目を見開いた。
「……皮の表面はクリスピー、裏面はモチモチ。そして内部から肉汁と野菜の甘みが爆発しました。……ニンニクのパンチ力が凄まじいです」
「だろ? この暴力的な味が、一日の疲れを吹き飛ばすんだよ」
「230円でこの満足感……。コストパフォーマンスがバグっています」
◇ ◇ ◇
続いて到着したのは、俺のメインディッシュ。
『天津炒飯』だ。
通常の天津飯は白米の上に卵と餡がかかっているが、これは中身が「チャーハン」になっている、夢のハイブリッドメニューだ。
「カケル。……その料理には、定義上の矛盾が生じています」
「あ?」
「チャーハンとは、米の水分を飛ばし『パラパラ』に仕上げる料理。天津飯は、餡によって『トロトロ』にする料理。……せっかくパラパラにした米を、再び液体に浸すなど!」
「そこがいいんだよ! パラパラの米に、濃厚な餡が絡むのが」
俺はレンゲで山を崩し、卵とチャーハンと餡を同時に口に放り込んだ。
美味すぎる。炭水化物と油のオーケストラだ。
「……一口、検証させてください」
アリスが疑わしげにレンゲを伸ばしてきた。
一口食べる。
「……む」
咀嚼するにつれ、彼女の眉間のシワが消えていく。
「……計算外です。チャーハンの油分が餡によってコーティングされ、喉越しが流動食のように滑らかです。これは……飲み物ですか?」
「カレーは飲み物って言うけど、天津炒飯も飲み物だな」
「認めざるを得ません。矛盾が生んだ奇跡です」
アリスは悔しそうに、しかし美味そうに、もう一口二口と奪っていった。
◇ ◇ ◇
そして、サイドメニューの登場だ。
『鶏のから揚げ』。
大ぶりの唐揚げの横に、小皿に入った「謎の粉」が添えられている。
「……カケル。この粉末は?」
「『魔法の粉』だよ」
「魔法……? 成分分析が必要です。塩化ナトリウムとコショウ、それに|グルタミン酸ナトリウム《旨味成分》の混合物に見えますが」
「ここの唐揚げは、これを付けて完成するんだ」
俺は唐揚げに粉をまぶして食べた。
スパイシーで、ジャンキーな味だ。
「……本当はな。俺は唐揚げにはマヨネーズをかけたいんだ。でも、餃キンに来た時だけは、このコショウを選んじまうんだよな」
「貴方は本当にマヨネーズ信者ですね。……しかし、揚げ物にさらに油を足すより、粉末の方が合理的です」
アリスも粉をつけて食べた。
「……美味しい。あっさりした胸肉の唐揚げに、このスパイスが複雑さを与えています。……合法的な粉ですよね?」
「当たり前だろ! 店員さんに言えば持ち帰り用も売ってくれるぞ」
「買います。持ち帰って成分を特定します」
さらに、『春巻き』もやってきた。
これは俺の隠れた大好物だ。
「春巻きですか。地味メニューですが悪くないですね」
「地味言うな。俺の中では中華で一番美味いのは春巻きなんだよ」
パリパリの皮を噛み破ると、熱々のとろみ餡が出てくる。
火傷しそうになりながらハフハフと食べるのが最高だ。
「……このクリスピーな食感。ASMRとして配信すれば、万バズが狙える音質です」
「アリス、お前も地味にネットに毒されてきたな……」
そして、最後の一品。
俺が「エビマヨ」を頼もうとしたところ、アリスが断固として変更させたメニューだ。
『エビのチリソース煮』。
「なぜエビチリに変更したんだよ……。俺はマヨネーズの海に溺れたかったのに」
「却下です。唐揚げがある状態で、さらに油分を追加するなど、脂質異常症への片道切符です」
アリスはプリプリのエビを箸でつまみ、ドヤ顔をした。
「それに、中華における海老料理の正統はチリソースです。トマトの酸味と豆板醤の辛味……これこそが海老のポテンシャルを最大化します」
「……まあ、エビチリも好きだからいいけどさ」
食べてみると、確かに美味い。
ピリ辛のソースが、白米《天津炒飯》を進ませる。
結局、アリスの選択はいつも正しいのだ。悔しいことに。
◇ ◇ ◇
「ごちそうさまでした」
全ての皿を空にし、俺たちは満腹感に浸っていた。
アリスはハンカチで口元を拭い、伝票を手に取った。
「……合計、2000円弱。これだけの質量と満足感を得て、この価格……。やはり中華料理の熱量効率は世界一です」
「だろ? 餃キンは裏切らないんだよ」
レジで会計を済ませ、店を出る。
外の空気は夜風に変わり、少し涼しくなっていた。
俺たちは、ニンニクの匂いを気にして、レジでもらったミント味のガムを噛んだ。
「……カケル」
「ん?」
「『概念は知っています』と言いましたが……」
アリスは夜空を見上げ、ふわりと笑った。
「机上のデータと、実際の味は違いました。酢の酸味も、魔法の粉の刺激も、天津炒飯の矛盾した食感も……体験しなければ分からない『未知』でした」
「そりゃそうだ。百聞は一食にしかず、だ」
「はい。……また、私の概念を更新しに来ましょう」
アリスはガムを噛みながら、上機嫌で歩き出した。
油でペタペタする床も、騒がしい店内も、彼女にとっては新鮮なアトラクションだったようだ。
俺は苦笑いしながら、彼女の隣を歩く。
さて、次はどこへ行こうか。
俺の知っている「庶民の味」は、まだまだ底をつきそうにない。
次回 第43話:期末テスト『一夜漬け』は、記憶の定着率を無視した暴挙です




