第38話:黒いアイツは、物理法則を無視した『侵略者』ですか?
6月。衣替えの季節を迎え、俺たちの制服も夏服に変わっていた。
放課後の教室。今日は俺とアリス、そして宮本さんの三人が掃除当番だった。
「……カケル。質問があります」
アリスがほうきを手に持ったまま、不満げに眉をひそめている。
「清掃とは『労働』です。対価が発生すべき業務を、なぜ生徒が負担せねばならないのですか? 専門の業者に外注すべき案件では?」
「日本の学校じゃ、掃除も『教育』の一環なんだよ。協調性を養うとか、場を清めるとかさ」
「掃除も教育……これも新しい概念ですか」
「昔からある日本の伝統みたいなもんだ」
アリスは嘆息したが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが……やるからには、完璧な仕事を遂行します」
「お、やる気になったか」
「掃除とは、エントロピーの増大に対する抵抗です。無秩序に拡散した塵芥を、秩序ある状態へと回帰させる……崇高なミッションと言えます」
アリスはほうきを構えた。その構えは剣道のようにも見える。
「床材の摩擦係数と塵の質量を計算……。ほうきの入射角は30度、掃き出し速度は秒速50センチが最適解です」
シュッ、シュッ。
アリスは機械のように正確な動作で、教室のゴミを集め始めた。
相変わらず、スイッチが入ると面倒くさいやつだ。
俺と宮本さんも、苦笑いしながら黒板消しや机運びを始める。
平和な放課後の風景――のはずだった。
「きゃあああああああっ!!」
突然、教室に宮本さんの悲鳴が響き渡った。
振り返ると、彼女が机の上に飛び乗って震えている。
「で、出たぁぁぁ! 黒いの! 黒いのがぁ!」
「……敵襲ですか?」
アリスが瞬時にほうきを構え、宮本さんの視線の先を追う。
教室の隅、掃除用具入れの影から、それは姿を現した。
黒く、艶めかしく、そして不快なほどに素早いアイツ。
識別コード『G』。
「……なんだ、Gか」
俺は冷静に呟いた。
コンビニバイトをしていると、ゴミ捨て場の裏などで頻繁に遭遇する。
正直、見慣れた光景だ。
「俺がやるよ。宮本さんはそこで待ってて」
俺は近くにあった新聞紙を丸め、臨戦態勢に入った。
一撃で仕留める。潰しすぎず、かつ確実に絶命させる力加減は習得済みだ。
だが、アリスは違った。
彼女はGを凝視し、戦慄していた。
「……あれが、Periplaneta fuliginosa……」
「アリス、下がってろ。こいつは速いぞ」
「図鑑のデータでは把握していましたが……実物は威圧感がありますね」
アリスは冷や汗を流しながら、Gの動きを目で追っている。
「あの初速……静止状態からトップスピードに達するまでの時間がゼロに近いです。慣性の法則を無視していませんか? 地球上の生物とは思えません」
「ただの虫だよ! 感心してないでどいてろ!」
俺が新聞紙を振り上げた瞬間、Gが動いた。
カサカサカサッ!
黒い稲妻のような速度で、床を走る。
「速いッ!」
「……識別コードG。移動速度は秒速1メートル超。体長比で換算すると、人間が時速300キロで走るに等しい速度です!」
アリスが実況する中、俺は丸めた新聞紙を振り下ろす。
バスッ!
……空振りだ。紙一重で躱された。
「ちっ、ニュータイプかよこいつ!」
「カケル! 物理攻撃は命中率が低いです! 化学兵器の使用を推奨します!」
アリスが鞄から、見たことのない銀色のスプレー缶を取り出した。
『業務用・瞬間冷却スプレー(-85℃)』と書いてある。
(なぜ持っている)
「凍結させ、標本として回収します。発射!」
「馬鹿! 教室でガスを撒くな!」
俺が止めるのも聞かず、アリスが構える。
その殺気を感じ取ったのか、Gが予期せぬ行動に出た。
背中の羽を広げたのだ。
「「飛んだ!?」」
俺と宮本さんの声が重なる。
Gは不規則な軌道を描きながら、あろうことかアリスの顔面に向かって特攻を仕掛けた。
「ひぃぃぃ! 九条院さん逃げてぇ!」
宮本さんが叫ぶ。
だが、アリスは逃げなかった。
スプレーを捨て、手近にあった「ちりとり」を盾のように構える。
「……領空侵犯です。迎撃します」
アリスの瞳が、冷徹な光を帯びた。
Gが目の前に迫る。
その瞬間。
ヒュッ。
アリスの体がブレた。
インド仕込みのCQC(近接格闘術)なのか!?
最小限の動きでGの突進をかわし、その遠心力を利用して、右手のほうきを一閃させた。
パァン!!
空中でジャストミート。
Gはテニスボールのように弾き飛ばされ、壁に激突して床に落ちた。
ピクピクと足を動かしているが、すぐに起き上がる気配はない。
「……気絶を確認」
アリスは流れるような動作でGをちりとりですくい上げ、窓を開けて外の植え込みへと放り投げた。
「標本にしようとも思いましたが、殺生は無益です。即時退去を命じます」
窓を閉め、残心。
完璧な所作だった。
「……す、すごい」
机の上から見ていた宮本さんが、呆然と呟いた。
「九条院さん、カッコよすぎ……! サムライみたいだった!」
「……対象の飛行軌道が直線的でしたので、予測は容易でした」
アリスは何食わぬ顔で言ったが、その指先は少しだけ震えていた。
「ですが……心拍数が上昇しています。あの生物の『生理的嫌悪感』を催させるフォルム……。精神攻撃の能力も保有しているようですね」
「ただキモいだけだよ。……まあ、助かったわ」
俺はふうっと一息ついた。
「さ、掃除終わらせて帰ろうぜ。……もう出ないことを祈るけど」
「同意します。用心のため各教室には対空ミサイル(瞬間冷却スプレー)を配備しておくべきかと」
「だからガスは使うなって」
俺たちは残りのゴミを手早く片付けた。
宮本さんはアリスを見る目が完全に「尊敬」に変わっており、「九条院さん、今度虫が出たら呼んでいい?」と頼んでいた。
アリスは「……報酬次第です」と答えていたが、満更でもなさそうだった。
こうして、教室の平和は守られた。
だが、夏はまだ始まったばかりだ。
次なる脅威は、虫ではなく、空から降り注ぐ「光」だった。
次回 第39話:紫外線《UV》は、肌を焼く『殺人光線』と同じです




