第36話:梅雨の湿気で、前髪が『非ユークリッド幾何学』を描いています
6月。日本列島が分厚い雲に覆われ、ジメジメとした空気が肌にまとわりつく季節。
梅雨の到来だ。
昼休みの2年A組の教室。
外はシトシトと雨が降り続いている。
教科書を片付けていると、隣の席からこの世の終わりのような溜息が聞こえてきた。
「……はぁ」
見ると、アリスが机に突っ伏している。
背中から漂うオーラは、絶望そのものだ。
「……カケル。本日は『休業』とします」
「学校だぞ。何があった?」
「鏡を見てください。私の前髪が……」
アリスがのっそりと顔を上げた。
その瞬間、俺は「あー」と納得した。
普段は絹糸のように真っ直ぐな彼女の黒髪が、湿気を吸ってうねり、前髪の一部がぴょこんと跳ねていたのだ。
「物理法則を無視して『非ユークリッド幾何学』的な曲線を描いています。これはカオス理論の具現化です」
「くせ毛か。別にいいじゃん、なんか小動物っぽくて可愛いぞ」
「慰めは不要です! これは九条院家の品位に関わる重大な『構造欠陥』です!」
アリスはバン! と机を叩いて立ち上がった。
「大気中の水分量が許容値を超えています。髪の内部の水素結合が切断され、不規則な再結合を起こしている……。直ちに修復作業が必要です」
そう言うと、アリスは鞄から巨大な缶を取り出した。
殺虫剤かと思うようなサイズだ。
「強力な皮膜形成剤で、強制的に直線を維持します。コンクリート並みの強度で固定すれば、湿気など敵ではありません」
「教室で噴射するな! 火災報知器が鳴るぞ!」
俺が慌てて止めに入ると、前の席の宮本さんが振り返った。
「あー、わかるー。私も雨の日って髪広がるんだよねー」
宮本さんは自分のボブヘアを触りながら共感を示した。
「九条院さん、前髪カーラー使う? 百均のやつだけど便利だよ」
「カーラー……? 円筒形の構造物で、髪の形状記憶を行うのですか?」
「そうそう。こうやって巻いておくと、いい感じにまとまるよ」
宮本さんがポーチからピンク色のプラスチック製カーラーを取り出すと、アリスはそれを宝石鑑定のようにまじまじと見つめた。
「……単純な構造ですが、曲率半径が計算されていますね。ですが、私の髪の『うねりエネルギー』は強大です。この程度の拘束具で制御できるとは……」
「大袈裟だって。普通に直るから」
女子同士の「湿気対策あるある」で盛り上がっているが、アリスの解決策は常に物理演算と化学反応に基づいているため、話が噛み合っているようで噛み合っていない。
◇ ◇ ◇
帰宅途中、雨脚が強くなっていた。
「……豪雨に近いですね」
「参ったな。靴の中までグチョグチョになりそうだ」
俺はため息をついた。
傘はあるが、足元の跳ね返りは防げない。スニーカーが濡れると、翌日まで乾かないのが貧乏学生の悩みだ。
「アリス、ちょっと寄り道していいか? 靴下乾かしたい」
「乾かす? 焚き火でもするのですか?」
「違うわ。近くに『コインランドリー』があるんだよ。そこで靴も乾かせる」
「コインランドリー……。無人洗濯施設ですね。概念は知っていますが、立ち入るのは初めてです」
アリスは興味津々で「同行します」と頷いた。
数分後。
俺たちは商店街の路地裏にある『ランドリー・イザナギ』に駆け込んだ。
自動ドアが開くと、温かく湿った空気と、洗剤の甘い香りが漂ってくる。
「……ほう」
アリスが目を見開いた。
店内には、巨大な銀色のドラム式洗濯機と乾燥機が、壁一面にズラリと並んでいる。
ゴウンゴウン、と低い音を立てて回る機械たち。
「壮観です。ここは宇宙船のドックですか? それとも遠心力分離機の実験施設?」
「ただの洗濯屋だよ。デカいのが乾燥機で、あっちが靴専用の乾燥機だ」
俺は濡れた靴と靴下を脱ぎ、靴専用乾燥機にセットして100円を投入した。
ブォォォン、と温風が吹き出す。
「便利ですね。靴ごときのために専用のマシンが存在するとは……日本のインフラは驚異的です」
「二十分くらいかかるから、そこで待ってようぜ」
俺たちは壁際のベンチに並んで腰掛けた。
他にお客さんはいない。
聞こえるのは、雨音と、洗濯機が回る音だけ。
アリスは、目の前で回転する大型乾燥機をじっと見つめていた。
中の洗濯物が、持ち上げられては落ち、また持ち上げられていく。
「……不思議です」
「ん?」
「洗濯物が回転しているだけなのに、見ていて飽きません」
彼女の碧眼が、回転に合わせてゆっくりと動く。
「規則的なリズム。遠心力と重力のせめぎ合い。そしてカオスな撹拌……。以前、洗濯機のなぞなぞがありましたが、あれを『動物』と答えた人の気持ちが、少し理解できる気がします。生き物のような鼓動を感じます」
「……アリスって、回るもの好きだよな」
「否定はしません」
雨音と乾燥機の重低音。
独特の湿った、けれど温かい空気感。
なんだか眠くなるような、心地よい沈黙が流れる。
俺は隣のアリスを見た。
彼女はリラックスしているようだが、一つだけ気にしていることがあった。
「……鬱陶しいですね」
アリスが何度も、額にかかる前髪を払いのけている。
湿気でうねった髪が、目に入りそうになっているのだ。
「視界不良です。やはりハードスプレーで固めるべきでした」
「固めたら不自然だろ」
「ですが、前髪の侵食によりストレス値が上昇しています。……切り落としたい」
「過激だな!」
見かねた俺は、ポケットを探った。
以前、100円ショップで買ったヘアピンのセットが、鞄のポケットに入ったままだったはずだ。
「なら、いっそ上げちゃえば?」
「上げる?」
「これ使ってさ」
俺は黒いアメピンを取り出した。
「おでこ出しちまえば、うねりも気にならないだろ」
「……前髪を消失させるのですか? ですが、私の顔面比率が変わってしまいます」
「いいから。じっとしてろ」
俺はアリスの方に向き直り、手を伸ばした。
アリスがビクッと体を固くする。
俺は彼女のうねった前髪をまとめて掬い上げ、少しねじって、額の上でパチンと留めた。
真っ白で、綺麗なおでこが露わになる。
「……ほら、できた」
「…………」
アリスは慌てて鞄から手鏡を取り出し、自分の顔を確認した。
そして、カッと顔を赤らめた。
「は、恥ずかしいです……!」
「なんでだよ」
「前頭葉の防壁が解除され、防御力がゼロになりました! これでは私の思考回路が丸見えではありませんか!」
「見えねーよ! どんな理屈だよ」
アリスは恥ずかしそうに手でおでこを隠そうとする。
だが、その姿は普段の「完璧なお嬢様」とは違って、年相応の幼さと愛嬌があった。
「いや、似合ってるぞ」
俺は素直な感想を口にした。
「顔が明るく見えていいじゃん。俺はそっちの方が好きかもな」
「……っ」
アリスの動きが止まった。
彼女は鏡の中の自分と、俺の顔を交互に見て、ゆっくりと手を下ろした。
「……そうですか」
ほんの少し、はにかむように口元が緩む。
「……通気性は良好ですね。視界もクリアです。……採用します」
「ああ。靴が乾くまでそのままでいいじゃん」
俺たちは再び並んで座った。
乾燥機の音に混じって、少し早くなった俺の鼓動が聞こえないか心配だった。
おでこ全開のアリスは、破壊力が高すぎる。
◇ ◇ ◇
二十分後。
靴乾燥が終わり、俺たちは店を出た。
雨は小降りになり、西の空には雲の切れ間から夕日が覗いている。
「……雨、止みそうだな」
「はい。気圧も上昇傾向にあります」
アリスは前髪を上げたまま、水たまりを避けて歩き出した。
その足取りは軽い。
「あ、そうだ。ヘアピン、返します」
アリスが髪に手をやろうとしたので、俺は止めた。
「あげるよ。どうせ無くすし、また湿気でうねるかもしれないだろ」
「……譲渡、ですか?」
アリスはピンに触れ、確かめるように撫でた。
「では、大切に保管します。これは……『湿気との戦い』に勝利した記念碑ですから」
「大袈裟なんだよ」
アリスは嬉しそうに微笑み、夕日を受けて輝くおでこを堂々と晒して歩いていく。
非ユークリッド幾何学だのカオス理論だの言っていたが、結局はヘアピン一本で解決した。
難しく考える彼女の頭を、こうやって単純な答えで解きほぐしていくのが、俺の役目なのかもしれない。
乾いた靴が、アスファルトを心地よく踏みしめる。
梅雨のジメジメも、たまには悪くないなと思った。
次回 第37話:『食べ放題』で元を取るには、原価率の高いメニューを狙うべきですか?




