第32話:テスト勉強再び。『赤点』は、情熱の赤ではありません
学生たちに現実が突きつけられる時期。『中間テスト』の足音が近づいていた。
放課後の教室。
返却された小テスト(数学)を見つめる俺の背中に、冷ややかな視線が突き刺さる。
「……32点」
アリスが俺の答案用紙を覗き込み、氷点下の声で言った。
「カケル。この答案用紙の配色は、美的感覚を疑います」
「……うるせーよ」
「白地に鮮烈な『赤』のインク……。これは情熱の赤ではありません。生物学的な『危険信号』です。このままでは中間テストで即死します」
アリスは俺の答案を奪い取り、パンと机を叩いた。
「直ちに救命措置が必要です。……放課後、緊急オペ(補習)を執り行います。場所は静寂なる知の殿堂――図書室です」
◇ ◇ ◇
図書室へ向かう廊下で、俺たちは宮本さんと遭遇した。
「あ、九条院さんに佐藤くん! これからテスト勉強?」
「ああ。俺が赤点寸前でな……連行されるところだ」
「あはは、大変だね。……あのさ、もしよかったら、私も混ぜてくれない?」
宮本さんがおずおずと提案する。
アリスが一瞬、固まった。
以前の彼女なら「効率が落ちる」と拒絶したかもしれない。
だが、あの日々の単語帳トレーニングは無駄ではなかったようだ。
「……宮本さん。許可します」
アリスは少しだけ嬉しそうに、口元を緩めた。
「三人寄れば文殊の知恵……並列処理による演算速度の向上が見込めます。歓迎します」
「やった! ありがとう!」
◇ ◇ ◇
図書室。
俺たちは奥のテーブル席に陣取った。
アリスは鞄から、何やら物々しい機械を取り出し、机の上に設置した。
「……九条院さん、それは?」
「『騒音計』です」
アリスは真顔で言った。
「ここは神聖な図書室です。学習効率を最大化するため、会話は40デシベル以下、ページをめくる音は20デシベル以下に抑制してください。咳払いは有罪です」
「緊張して集中できねえよ!」
「九条院さん、本格的だね……あはは」
宮本さんが引きつった笑いを浮かべる中、地獄の勉強会が始まった。
「カケル。この英単語の意味は?」
「えーっと……『Company』? 会社だろ?」
「それだけではありません。『仲間』『同席』という意味もあります」
アリスはホワイトボード(携帯用)に書き込みながら解説を始めた。
「丸暗記は非効率です。『語源』から推測するのです。Com(共に)+Pan+y(仲間たち)。つまり『同じ釜の飯を食う仲間』が原義です」
「へえ、分かりやすいな」
「……つまり」
アリスはペンを置き、チラリと俺と宮本さんを見た。
「私とカケルは何度も食事を共にしていますし、宮本さんともこうして机を囲んでいます。定義上、私たちは深い『Company』と言えますね」
「……っ!」
サラッと言われた言葉に、俺と宮本さんは顔を見合わせた。
本人はあくまで「語源の解説」として言っているつもりなのだろうが、事実上の「仲間認定」だ。
「……九条院さん、なんか可愛いとこあるよね」
「だな。自覚がないのがタチ悪いけど」
俺たちはニヤニヤしながら、教科書に向き直った。
騒音計の数値が少し跳ね上がったが、アリスは気づいていないようだった。
◇ ◇ ◇
勉強会を終え、宮本さんと別れた帰り道。
外はもう薄暗くなっていた。
4月が終わり、5月が始まろうとしている。
「宮本さんと勉強できて良かったな」
「……はい。彼女の思考プロセスは、貴方よりは論理的でした」
「一言多いんだよ」
軽口を叩きながら歩いていると、アリスがふと思い出したように言った。
「そういえば、今月の23日はカケルの誕生日ですね」
「え? なんで知ってるんだ?」
「以前、カケルを調査したときにそのデータもありました」
「調査!?」
(いや、まあしてただろうな。でも、そういうことをサラッと言うんじゃないよ)
「そのデータの中に、佐藤家の資産状況も記載されていました」
「……そうか。まあ、別に隠すことでもないしな。大したことないよ」
「つきましては」
アリスは立ち止まり、俺に向き直った。
「失礼でなければ、カケルの誕生日に、その『負債』の解消をプレゼントしたいのですが」
「……は?」
「私が肩代わりします。カケルの家の借金、全額返済させていただきます」
言葉がでない。
誕生日プレゼントが「借金完済」。
「……必要ない」
「しかし、負債が無くなれば生活水準が向上し、バイトの時間も学習に充てられます。合理的です」
(全く……このお嬢様は)
俺はため息をつき、首を横に振った。
「別に意地張って言ってるわけじゃ無いんだ。俺の父親は……ある意味、自分の生き方を貫いた結果、借金を作っちまったんだ」
「生き方、ですか?」
「ああ。ここで誰かに助けて貰ったら……俺は親父の生き様まで否定することになる気がするんだ。だから、自分で何とかしたいんだよ」
俺は空を見上げた。
「それに金額見ただろ? 九条院家からしたら小銭だろうけど、俺にとっても返せない額じゃない。生活に困ってるわけでもないしな」
「……分かりました。余計なことを言ってしまいましたね」
アリスは素直に引き下がった。
少し寂しそうな顔をしていたので、俺は慌てて付け加えた。
「まあ、でも気にかけてくれてありがとうな。気持ちだけ受け取っとくよ」
「……はい。カケルのお父様は、どのような事業に失敗されたのですか?」
アリスが興味津々で聞いてくる。
俺は少し苦笑いして、答えた。
「親父は、小さな輸入雑貨の店をやってたんだ。でも、人が良すぎてな……」
「人が良い?」
「『困ってるなら支払いはいつでもいいよ』とか、『この商品はサービスするよ』とか。利益度外視で客に尽くしすぎたんだ。おまけに、友人の連帯保証人にもなっちまって……」
「……」
「結局、店は潰れた。馬鹿だよな。もっと賢く立ち回ればよかったのに」
俺が自嘲気味に言うと、アリスは眉間に深いシワを寄せ、厳しい顔をした。
「……経営者失格です」
「うぐっ」
「利益の確保は企業の義務であり、存続こそが最大の顧客サービスです。情に流されて共倒れになるなど、最も避けるべき『非合理な結末』です」
アリスの正論が突き刺さる。
返す言葉もない。
「ですが」
アリスはふと、表情を緩めた。
「カケルが私に接する時の、その損得勘定のない優しさは……遺伝だったのですね」
「えっ」
「お父様の経営手腕はゼロ点ですが、その『遺伝子』は、カケルの中に確かに継承されています」
(親父、ゼロ点だってよ)
彼女は俺の顔をじっと見つめ、小さくため息をついた。
「……取り消します。借金の肩代わりは中止です」
「お、おう」
「カケルは自力で返済しなさい。それが、お父様の『甘さ』を清算し、貴方がより強くなるための授業料です」
「厳しいな!」
「その代わり……」
アリスは俺の袖を少しだけ掴んだ。
「貴方がその『人の好さ』で、また誰かに騙されそうになった時は……私が全力で阻止します。私の目の黒いうちは、連帯保証人の判子など押させませんよ」
「……頼もしいな」
俺は苦笑した。
宝くじみたいな一発逆転の夢はないけれど、地道に返して、地道に生きる。
それが俺なりの、親父へのリベンジだ。
「まあ、見ててくれよ。俺は親父よりは賢いつもりだからな」
「どうでしょうね。私には、貴方も十分『お人好しのカモ』に見えますが」
「うるさいよ!」
俺たちは笑い合いながら、夕暮れの道を歩き出した。
借金持ちの貧乏学生と、大富豪のお嬢様。
財布の中身は違うけど、歩幅だけは、なんとなく合っている気がした。
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