第30話:真っ赤なスープは、生物に対する『警告色』ではありませんか?
選挙の熱狂も冷めやらぬ放課後。
俺たちは、「もっと熱いもの」を求めて、隣町のラーメン激戦区へと足を運んでいた。
目的の店の前まで来ると、強烈な匂いが鼻腔を刺激した。
ニンニク、炒めた野菜、そして――喉の奥がヒリつくような、唐辛子の刺激臭。
「……カケル。大気中のカプサイシン濃度が異常値を検出しています。ここは化学兵器の実験場ですか?」
「違う。ここが激辛タンメンの聖地『ペルセウス』だ」
俺は真っ赤な看板を指差した。
看板には、燃え盛る炎のようなフォントで店名が書かれている。
「タンメン。概念は知っています。中国語の湯と麺に由来し、具材と湯を一緒に煮込むのが特徴だとか」
「アリスといると豆知識が増えるよ」
(覚えているかどうかは別だが)
「それにペルセウス……。ギリシャ神話の英雄ですね」
「ああ。『あまりの辛さと旨さに、ペルセウス座まで飛び上がる』っていう意味らしいぞ」
「物理法則を無視したキャッチコピーですね。あるいは、昇天(死)の暗喩でしょうか」
アリスは警戒心を露わにしながらも、好奇心には勝てないようで、おずおずと店内に入った。
◇ ◇ ◇
店内は満席だった。
カウンター席では、屈強なサラリーマンや学生たちが、滝のような汗を流しながら丼に向き合っている。
誰もがタオルで顔を拭い、水を飲み、それでも箸を止めない。
その光景は、食事というよりは「修行」や「格闘」に近かった。
「……異様な光景です。彼らはなぜ、自らに苦痛を与えているのですか?」
「それが激辛の魔力なんだよ。ほら、食券買うぞ」
俺たちは入り口にある券売機の前へ立った。
その瞬間、アリスの瞳がパァッと輝いた。
「……おお!」
「どうした?」
「カケル、見なさい。タッチパネルではありません。物理ボタン式です!」
アリスは食い入るように、ずらりと並んだプラスチックのボタンを見つめた。
「素晴らしい……。この樹脂製の突起、押し込んだ時のストロークの深さ。これこそが『入力』の手応えです」
(ホントにボタンが好きだな)
アリスは恍惚とした表情で、まだお金も入れていないのにボタンを空押しした。
カチッ、カチッ。
「んん……! この指先に伝わるバネの反発係数……。やはり牛丼屋の平坦なガラス板とは格が違います」
カチカチカチッ。
アリスの指が、ピアニストのような滑らかさでボタンを連打し始めた。
「おい、遊ぶな。後ろ並んでるから」
「はっ……! 失礼しました。つい、指が吸い寄せられて……」
俺に背中をつつかれ、アリスは慌てて我に返った。後ろのサラリーマンにペコペコと頭を下げる。
気を取り直して、メニュー選びだ。
『塩タンメン(辛さ0)』
『野菜タンメン(辛さ1)』
『味噌タンメン(辛さ3)』
『辛味噌タンメン(辛さ6)』
『ゴルゴーン・ラーメン(辛さ10)』
「私は……そうですね。辛いものは嫌いではありません」
アリスは腕を組み、分析を開始した。
「九条院のシェフが作るカレーも、スパイスを効かせた本格派ですし、エスニック料理のトムヤムクンも好物です。ある程度の刺激は許容範囲内です」
「じゃあ、この『味噌タンメン』にしておけ。これが一番人気で、辛さの基準になるやつだ」
「カケルは?」
「俺はもちろん、これだ」
俺は迷わず、一番上の赤いボタン――『ゴルゴーン・ラーメン』を押した。
ボタン自体が禍々しい赤色をしている。
「ゴルゴーン……。ペルセウスに退治された、髪が蛇の怪物ですね」
「ここのラスボスだ。辛さレベル10。食えば石になるほどの衝撃ってことだな」
「正直、その概念も味わってみたいところではあります。しかし私は初心者、まずはレベル3を攻略してからにします」
「いい心がけだ」
俺は辛さには強い。
激辛カレーでもハバネロソースでも全然平気だ。
味覚が馬鹿になっている自覚はあるが、たまに摂取したくなるんだよな。
◇ ◇ ◇
数分後。
カウンターに二つの丼が着弾した。
「……」
アリスが絶句した。
彼女の目の前にある『味噌タンメン』。
炒めた野菜と豚肉が山盛りになっており、スープは食欲をそそる赤味噌色をしている。
だが、その上から明らかに「赤い粉」が振りかけられていた。
「……カケル。私のスープ、すでに危険な色をしていませんか?」
「まあ、レベル3だからな。ピリ辛くらいだよ」
「では、貴方のは……」
アリスが俺の丼を見て、息を呑んだ。
『ゴルゴーン・ラーメン』。
それは、もはやスープではなかった。
ドロドロとしたマグマのような液体。表面を覆い尽くす真っ赤な唐辛子の層。そして頂上には、生の唐辛子が丸ごと数本トッピングされている。
湯気すらも赤く見えた。
「……生物学的な警告色です」
アリスは震える声で言った。
「自然界において、赤や黄色は『私には毒がある』と捕食者に伝えるためのサインです。この料理は、全力で『食べるな』と主張しています」
「食うけどな。いただきます」
俺は割り箸を割り、真っ赤な麺をリフトアップした。
そして、豪快に啜り込む。
ズズズッ!
口腔内に広がる、暴力的な刺激。
喉を焼く灼熱。
だが、その奥にある味噌のコクと野菜の甘み。
「……うん! これこれ」
「ッ!? 平気なのですか!?」
「最高だ。この痛みこそが生の実感だよ」
俺は平然と食べ進める。汗はかくが、手は止まらない。
それを見たアリスは、「ならば私も」と意を決して箸を手に取った。
「……所詮は植物の実です。人間が敗北する道理はありません」
彼女は『味噌タンメン』のスープを、レンゲで一口すくった。
そして、優雅な所作で口に運ぶ。
「……ん」
動きが止まる。
一秒。二秒。三秒。
カタン。
アリスの手からレンゲが落ちた。
「~~~~ッッ!!??」
アリスの目がカッと見開かれ、白い肌が一瞬にして朱に染まった。
彼女は口を押さえ、小刻みに震え出した。
「か、ら……ッ!? 痛い!? 熱い!? いえ、痛い!!」
「大丈夫か?」
「な、何ですかこれは! 味覚ではありません! 舌の痛覚受容体が警報を鳴らしています! 口の中で爆発が……!」
「水飲むなよ。余計に辛くなるぞ」
俺の忠告も虚しく、パニックになったアリスはコップの水を一気飲みした。
その瞬間、脂溶性のカプサイシンが舌全体に広がり、さらなる地獄が彼女を襲う。
「んんんんーっ!! 広がりまひた! 痛みが拡散しまひた!」
「だから言ったろ……」
アリスは涙目で悶絶している。
レベル3でこれだ。レベル10食べたら気絶するかもしれない。
「……解せません。なぜカケルは、そんな溶岩のようなものを平然と摂取できるのですか? 味蕾が死滅しているのですか?」
「慣れだよ、慣れ。それに、辛さの向こう側に『旨味』があるんだよ」
「向こう側……? 臨死体験の話ですか?」
アリスは涙を拭い、恨めしそうに丼を睨んだ。
「……ですが、敗北のまま撤退するのは九条院の家訓に反します」
「お、まだ食うか?」
「はい。野菜なら……野菜の甘みなら、中和剤として機能するはずです」
アリスは果敢にも、スープに浸ったキャベツを口にした。
シャキシャキとした食感。野菜本来の甘み。そして、遅れてやってくる辛味。
「……っ、辛い。ですが……」
アリスの手が止まらない。
辛いと言いながら、次の一口を運んでいる。
「……美味しい、かもしれません」
「だろ? 辛いんだけど、味噌が濃厚だから箸が進むんだよ」
「不思議です。口内は炎上しているのに、脳内では快楽物質が分泌されている感覚があります。……これが、依存性ですか」
アリスは汗だくになりながら、必死に麺と野菜を胃袋に収めていく。
その姿は、いつものクールなお嬢様ではなく、ただの一人の食いしん坊な女子高生だった。
◇ ◇ ◇
二十分後。
俺たちは店を出て、夜風に当たっていた。
「……ふぅ」
アリスが深く息を吐く。
額にはうっすらと汗が残り、頬は上気して赤い。
唇も少し腫れて艶やかになっていて、不覚にもドキッとしてしまった。
「生還しました……」
「完食、おめでとう」
「ありがとうございます。……口の中がまだヒリヒリします。ですが、妙な爽快感がありますね」
「サウナから出た感じに近いのかもな」
「なるほど。強制的な発汗と代謝の向上によるデトックス効果……。健康法としては理に適っているのかもしれません」
アリスは納得したように頷き、俺を見た。
「ですが、カケルの『ゴルゴーン』は論外です。あれは食事ではなく、消化器官への拷問です」
「まあ、俺も明日のトイレが怖いけどな」
「……想像させないでください」
アリスは顔をしかめたが、すぐにふふっと笑った。
「辛いものは好きな方だと思っていたのですが……概念が更新されました。世界には、痛みすらも調味料にする食文化があるのですね」
「次はレベル5に挑戦するか?」
「お断りします。しばらくは、豆腐とミルクで胃壁を修復することに専念します」
俺たちは笑い合いながら、駅へと歩き出した。
辛さで火照った体に、春の夜風が心地よい。
選挙の熱気も、激辛の熱気も、いつかは冷める。
けれど、こうして二人で「辛いね」と言い合った記憶だけは、冷めずに残るのかも知れない。
次回 第31話:クレーンゲームのアームは、商品を撫でるための機能しかありませんか?




