第3話:『つゆだく』とは、スープの海に米を沈める儀式のことですか?
放課後。今日は俺と九条院は、駅前にある派手な色の看板の前に立っていた。
漂ってくるのは、醤油と出汁、そして牛肉の脂が混ざり合った、暴力的なまでに食欲をそそる香りだ。
「……ここが、約束の地ですか」
九条院がゴクリと喉を鳴らす。
制服姿の深窓の令嬢が腰に手を当てて牛メシ屋の前に立っていた。
「よし、入るぞ。昼時は戦場だけど、今の時間なら空いてるはずだ」
「了解です。兵站の確保に向かいます」
自動ドアをくぐり、カウンター席へ。
俺は席に着いて、ふと違和感を覚えた。
(あれ? メニューがない?)
代わりに目の前に鎮座していたのは、黒いタブレット端末だった。
(そういや、節約生活もあってしばらく来てなかったけど……今はタッチパネル注文になったのか)
浦島太郎気分で画面を見ていると、隣の九条院が不思議そうにタブレットをツンツンと突っついた。
「カケル。この板は何ですか? 黒魔術の祭壇?」
「注文用のタッチパネルだよ。ここから好きなのを選ぶんだ」
「なるほど。概念は知っています。スマートデバイスによる無人化ですね」
九条院は納得顔で、画面上の『牛丼』を指先でタップした。
――トン。
無機質な音がしただけで、画面が切り替わる。
九条院の動きがピタリと止まった。
「……解せません」
「どうした?」
「カチッと言いません」
九条院は不満げに眉をひそめ、もう一度画面をペチペチと叩いた。
「指先に伝わる反発が皆無です。これでは、注文が確定したという『実感』が得られません。虚無です」
「タッチパネルだからな。物理ボタンじゃないんだよ」
「退化です! 人類はなぜ、あの素晴らしい『ポチッ』という触覚快楽を捨てて、このような平坦なガラス板を選んだのですか!?」
「いや、昔は入り口にデカいボタン式の券売機があったんだけどな。今は廃止されたみたいだ」
俺が何気なく言うと、九条院はガーン! と効果音がつきそうな顔で絶望した。
「なんと……。そんな券売機が存在した時代があったのですか……?」
「まあ、俺が中学の頃くらいまではあったな」
「くっ……! 私は生まれる時代を間違えました。その黄金時代に立ち会えなかったことが、生涯の悔いです」
(そこまでかよ)
九条院はひとしきり悔しがった後、渋々といった様子でタッチパネルの操作に戻った。
◇ ◇ ◇
「さて、牛丼(並)を選んだわけだが」
画面が切り替わり、カスタマイズ画面が表示された。
(今はこういう風に表示されるのか)
ここからが本番だ。
【つゆの量:つゆぬき/普通/つゆだく】
【ねぎの量:ねぎぬき/普通/ねぎだく】
「……カケル。選択肢が現れました」
「自分好みに味を調整できるんだよ。俺のおすすめは『つゆだく』だ」
「つゆだく……? 語感から察するに、煮汁を増量するということですか?」
「正解。タダで味が濃くなる。コスパ最強の呪文だ」
俺がドヤ顔で説明すると、九条院は冷ややかな目で画面を睨んだ。
「異議あり。白米の美徳は、その純白さにあります。汁で汚染された米など、建造物としての強度が保てません。私は『普通』を選択します」
(全ての丼ものを否定しやがった)
「分かってないな、丼の底に溜まった汁を吸った米の美味さを知らないのか?」
「知りませんし、知りたくもありません。それは米への冒涜です」
平行線だ。
まあいい、食えばわかるさ。
「次はサイドメニューだ。卵はどうする?」
【生玉子/半熟玉子(+30円)】
九条院は迷わず『半熟玉子』をタップしようとした。
「待て九条院! それは罠だ!」
「な、何ですか?」
「半熟にするだけでプラス30円だぞ!? 生玉子なら熱々の牛丼に乗せて混ぜれば、余熱でいい感じのマイルドさになる。30円あれば、スーパーでもやしが一袋買えるんだ!」
「……カケル。貴方の経済観念は、時々あまりにミクロすぎて涙が出ます」
結局、九条院は「とろりとした食感は譲れません」と言って半熟玉子を選び、俺は信念に従ってつゆだく・生玉子を選択した。
「注文確定っと」
送信ボタンを押す。
九条院はまだ「やはり押した感触がないのは不誠実です」とブツブツ言っていたが、次の瞬間。
「へいお待ち! 牛丼並、つゆだく、半熟、生玉子!」
店員さんがお盆をドンと置いた。
体感時間、わずか三十秒。
「……は?」
九条院が目を丸くして、店員と俺を交互に見た。
「魔法? 時空間転移ですか?」
「これが牛丼屋の『速さ』だ」
「早すぎます。厨房のオペレーションはどうなっているのですか? 秒単位で管理された軍隊でも、ここまで迅速な展開は不可能です」
九条院は戦慄しながら、着丼した牛丼を見つめた。
茶色く煮込まれた牛肉と玉ねぎ。立ち上る湯気。
俺は卓上の紅生姜ポットを開ける。
「仕上げだ。これを乗せる」
「……鮮やかな赤。ルビーですか?」
「紅生姜だ。牛丼には必須のブーストアイテムだ」
俺は山盛りに乗せる。九条院も真似をして、控えめにちょこんと乗せた。
「いただきます」
二人で手を合わせ、箸を割る。
九条院はまず、肉を一枚、慎重に口へ運んだ。
「……ん!」
「どうだ?」
「柔らかい……。安価な輸入肉のはずですが、脂身の甘みとタレの塩分濃度が黄金比です。これが……数百円の味?」
彼女の箸が進む。
そして、俺の丼を見て動きを止めた。
「カケル。貴方の丼、洪水が起きていますよ」
「これが『つゆだく』だ」
俺の丼の底には、タレがたっぷりと溜まり、ご飯が茶色く染まっている。
俺はそれを生玉子と絡め、豪快にかき込んだ。
「久しぶりに食べたけど、うめぇ! これだよこれ!」
「……野蛮です。ですが」
九条院は俺の食べっぷりをジッと見て、ゴクリと喉を鳴らした。
そして、自分の『普通』の牛丼を見て、少しだけ残念そうな顔をする。
「……私の白米は、あまりに清潔すぎますね」
「一口食うか?」
「! ……あくまで検証です。サンプルデータの比較が必要です」
九条院は顔を赤らめながら、俺の丼に箸を伸ばし、『つゆだくご飯』をひとつまみ口に入れた。
瞬間、彼女の瞳が輝く。
「……概念が、崩壊しました」
「だろ?」
「米の粒ひとつひとつがタレを吸収し、噛むたびに旨味が溢れ出します。これは……スープの海に米を沈める儀式……なんと罪深い味……」
九条院は悔しそうに、けれど箸を止めずに言った。
「カケル。次回のオーダーは『つゆだく』で申請します」
「おう。俺の奢りじゃないなら、いくらでも食え」
こうして深窓の令嬢、九条院アリスによる牛丼初体験は、タッチパネルへの不満と、つゆだくへの敗北で幕を閉じた。
◇ ◇ ◇
店を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
「……満足したか?」
「はい。未知のエネルギーを充填しました」
九条院は膨れたお腹をさすりながら、満足げに微笑む。
もう日は暮れている。これ以上連れ回すのは、さすがにマズいだろう。
「じゃあ、今日はここで解散だな。気をつけて帰れよ」
「お待ちください、カケル」
九条院が慌ててスマホを取り出した。
「今後の兵站情報の共有のために、貴方の連絡先コードを要求します」
「ああ、LIMEか? いいけど」
俺たちはQRコードを読み取り合い、友達登録を済ませた。
「……登録完了。これが、カケルのアカウント……」
「変な名前で登録すんなよ?」
「善処します」
別れ際、ピロン、と俺のスマホが鳴った。
九条院からの初メッセージだ。
『拝啓 佐藤カケル様。本日は貴重な炭水化物摂取の機会を賜り、誠に感謝申し上げます。寒さの増す昨今ではありますが、ご自愛くださいませ。敬具』
(……手紙かよ!)
(あと、アイコンのこれ「九条院家の家紋」か? めちゃカッコいいな!)
俺は既読をつけるのを一瞬ためらったが、スタンプを一つ返して、家路についた。
次回 第4話:『圧縮陳列』は知っていますが、ここはジャングルですか?




