第28話:『シャトルラン』は、持久走ではなく「往復するだけの苦行」ではありませんか?
4月。新学期の喧騒も落ち着き始めた頃。
一部の高校生にとって避けては通れない、憂鬱なイベントがやってきた。
『身体測定』および『スポーツテスト』である。
体育館には、ジャージ姿の生徒たちが長蛇の列を作っていた。
身長、体重、座高、視力。それぞれの測定場所で一喜一憂する声が響く。
「あー! 身長縮んでる! マジ最悪!」
「佐藤くんはどうだった? 伸びた?」
話しかけてきたのは、アリスの前の席の宮本さんだ。
ショートカットが似合う、クラスのムードメーカー的な女子である。
先日のノートの一件以来、こうして気さくに話しかけてくれるようになった。
「俺か? ……5ミリ伸びてた。誤差の範囲だけどな」
「いいなぁ。私なんて体重が誤差の範囲を超えて増えててさ……春休みのスイーツ巡りが祟ったかも」
宮本さんはお腹をさすりながら苦笑いしている。
そんな「普通の高校生」らしい会話をしている横で、一人だけ異質な空気を纏ってパイプ椅子に座っている人物がいた。
九条院アリスだ。
彼女はジャージ姿ではなく、制服のまま、分厚い洋書(たぶん医学書)を読んでいる。
「……なぁ九条院。お前、並ばなくていいのか?」
「不要です」
アリスは本から目を離さずに答えた。
「私のバイタルデータは、装着しているスマートリングを通じて、九条院家専属の医療チームに24時間体制で送信されています。心拍数、血圧、睡眠の質に至るまで、全てクラウド上で管理されていますから」
「……へえ」
「学校医の聴診器や、アナログな身長計など、精度が低すぎてノイズです。センチ単位の数値に一喜一憂する心理も、非合理的で理解できません」
アリスは「ふっ」と冷笑した。
宮本さんが「す、すごいね……SF映画みたい」と引きつった笑みを浮かべる。
まあ、こいつに関しては「健康診断免除」という特例措置が取られているのだろう。
校長への圧力でもかかっているのかもな。
◇ ◇ ◇
午後からは、グラウンドと体育館に分かれての『スポーツテスト』だ。
ここからはアリスもジャージに着替え、参戦することになる。
まずはグラウンドでの『50メートル走』。
「位置について、よーい……ドン!」
ピストルの音と共に、アリスが飛び出した。
そのフォームは、独特だった。
上体を極端に低くし、腕を振るというよりは、空気を切り裂くような鋭い動き。
インド留学時代に叩き込まれたという、軍隊式格闘術(CQC)のステップなのか?
「っ……!」
速い。
迷いのない加速で、あっという間にゴールラインを駆け抜けた。
「6秒8!」
体育教師がタイムを読み上げると、クラス中がどよめいた。女子にしては相当速い。
「九条院さんすごーい! 運動神経抜群なんだね!」
宮本さんが目を輝かせて駆け寄ると、アリスは涼しい顔で汗一つかいていなかった。
「……称賛には及びません。空気抵抗を最小化し、地面への反発係数を最大化しただけです。物理法則に従えば、人体はもっと加速できるはずですが」
「あはは、相変わらず難しいこと言うねぇ」
続いて、『ハンドボール投げ』。
アリスはボールを手に持ち、ゴールの方角を見据えた。
「風速、南南東2メートル。ボールの質量と空気抵抗を計算……。投射角は42度が最適解」
ブォン!
美しい放物線を描いて、ボールが飛んでいく。
男子の平均記録すら超える飛距離を叩き出した。
「すげえ……」
「文武両道ってレベルじゃねーぞ」
男子生徒たちがざわつく中、俺の番が回ってきた。
「佐藤、行きます」
俺は気合いを入れてボールを投げた。
が、指に引っかかり、ボールはヘナヘナと地面に落下した。
記録、15メートル。
「……ふっ」
アリスが口元を押さえて失笑した。
「カケル。貴方の投擲フォームには、殺意が足りませんね」
「殺す気で投げてねーよ! スポーツだぞ!」
「ボールに運動エネルギーを伝達できていません。手首のスナップ……ここをこうして……」
アリスが無駄に近い距離で指導を始めようとするので、俺は慌てて逃げ出した。
◇ ◇ ◇
そして、スポーツテストの締めくくり。
体育館で行われる、最も過酷で最も忌み嫌われる種目。
『20メートルシャトルラン』。
電子音が鳴るたびに、20メートル先の線まで走り、また戻ってくる。
音の間隔は徐々に短くなり、間に合わなくなった時点で終了。
単純にして残酷な、持久力の限界を測るゲームだ。
「ドレミファソラシド……ピピッ」
スタートの合図と共に、男女混合の一斉スタートが切られた。
最初はゆっくりだ。みんな余裕の表情でジョギングしている。
「……退屈です」
俺の隣を走るアリスが、つまらなそうに呟いた。
「ただ往復するだけ。景色の変化もなければ、戦略性もありません。これはスポーツではなく、ハムスターの回し車と同じ『徒労』ではありませんか?」
「文句言うなよ。持久力を測るんだから」
「非生産的です。私の脚力データなら、50メートル走の結果から算出可能です」
回数が30回を超えたあたりで、脱落者が出始めた。
ペースが速くなり、息が切れてくる。
「……飽きました」
40回目。アリスが突然足を止めた。
彼女の呼吸は乱れていない。体力にはまだ余裕があるはずだ。
「おい、まだ走れるだろ?」
「これ以上の反復行動は、精神的ストレスになります。時間の無駄です。離脱します」
アリスは涼しい顔で線の外に出た。
平均以上の記録は出しているが、限界に挑む気はさらさらないらしい。
宮本さんも45回でリタイアし、座り込んでいた。
そして、60回を超えた頃。
残っているのは、サッカー部や陸上部のエースたちと――なぜか、俺だった。
「……あれ? 佐藤くん、まだ残ってる?」
「意外……運動音痴だと思ってたのに」
周囲がざわつき始める。
俺の足は遅い。瞬発力もない。
だが、この「シャトルラン」に関してだけは、俺には特殊なスキルがあった。
(……聞こえる)
電子音が、あの音に聞こえる。
コンビニのフライヤーが、揚げ上がった音。
レジの呼び出しボタンの音。
品出し中に呼ばれる、店長の怒鳴り声。
(行かなきゃ……。レジに行かなきゃ……。品出ししなきゃ……)
俺の目は死んでいた。
感情はない。ただ、音に合わせて体を動かす自動人形と化していた。
バイトの日々。駅とバイト先と学校を往復する日々。
それに比べれば、この平らな床を走るだけの行為など、休憩時間のようなものだ。
「……カケル?」
アリスが不審そうに俺を見ている。
60回。70回。
運動部の連中が「くそっ、きつい……!」と脱落していく中、俺は無表情で走り続けた。
汗は流れているが、呼吸のリズムは一定だ。
これはスポーツではない。「業務」だ。
「……なんなの、あれ」
宮本さんがポカンと口を開けていた。
「速くもないし、フォームも綺麗じゃないのに……止まらない。ゾンビみたい」
「……いいえ」
アリスが、少しだけ真剣な眼差しで俺を見ていた。
「あれは、スポーツマンの走りではありません。……『労働者』の走りです」
「労働者?」
「終わりのないタスクを、感情を殺して淡々と処理する……。現代社会が生み出した、悲しき生存本能の具現化です」
80回。
ついに、陸上部のエースと俺の一騎打ちになった。
エースは必死の形相だが、俺は「あ、からあげ揚げなきゃ」くらいの思考レベルで走っている。
結局、85回を超えたところでエースが倒れ込み、俺は一人で走り続けた。
「……もういいです、佐藤くん! 終了!」
教師がストップをかけた。
俺は立ち止まり、ふぅ、と息を吐いた。
「……終わったか」
「佐藤、お前……体力お化けかよ」
クラスメイトたちから、畏怖と称賛の混じった視線が注がれる。
いや、体力があるわけじゃない。
心が麻痺しているだけだ。
◇ ◇ ◇
放課後。
俺たちは更衣室から出て、帰り支度を整えた。
「お疲れ様、カケル。水分を」
アリスがスポーツドリンクを差し出してくれた。
「おう、サンキュー」
「驚きました。カケルにあのような持久力が隠されていたとは」
「まあな。バイトで鍛えた無駄な足腰だよ」
「無駄ではありません。あの『無の境地』に至る精神力……。座禅に近いものを感じました」
アリスは感心したように頷いた。
「ですが、カケルの肉体は悲鳴を上げているはずです。明日は間違いなく、遅発性筋肉痛……いわゆる筋肉痛により、行動不能になるでしょう」
「……言うなよ。明日もバイトあるんだから」
俺はすでに重くなり始めた足を引きずりながら歩き出した。
アリスがその隣に並ぶ。
「荷物、持ちましょうか?」
「いいよ。お嬢様に持たせるわけにはいかねーよ」
「では、せめて……」
アリスは少し迷ってから、俺の二の腕をツンと突っついた。
「……よく頑張りました。カケルの『労働者の意地』、しかと見届けましたよ」
その笑顔が、スポーツドリンクよりも体に染みた。
筋肉痛は確定だが、まあ、悪い気分ではない。
俺たちは夕暮れの校庭を後にした。
次のイベントは、もっと頭を使うやつがいいな、と願いながら。
次回 第29話:生徒会選挙は『公約』という名の『絵空事』を競う大会ですか?




