第1話:深窓の令嬢と、130円の懐炉
1月の風は、貧乏人の財布を狙い撃ちにするかのように冷たい。
バイト帰りの夜道。俺、佐藤カケルは、かじかんだ指先でポケットの中の小銭を数えていた。
「百、百一、百二……よし、百三十円ある」
全財産ではない。だが、今日の晩飯代を引いた余剰資金がこれだけだ。
この百三十円を、目の前の自動販売機に投資して『あたたか〜い』缶コーヒーという名の暖を取るか。それとも、家に帰るまでガムシャラに走って自家発電で凌ぐか。
それが問題だ。
俺が経済と熱力学の狭間で葛藤していた、その時だった。
「……む」
公園のベンチに、異物が鎮座していた。
人間だ。それも、この極寒の空の下で、レースのあしらわれた薄手のドレス一枚という、自殺志願者みたいな格好をした少女だった。
月明かりに透けるような艶のある黒髪。陶磁器のように白い肌。
まるでショーケースの中のフランス人形が、そのまま抜け出してきたような美貌だ。
だが、そのフランス人形は、小刻みに震えながらガチガチと歯を鳴らしていた。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
関わりたくない。でも、ここで見捨てて翌朝のニュースになるのはもっと嫌だ。
俺が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。宝石のような碧眼が、俺を射抜く。
「……何かしら、庶民」
「いや、何かしらじゃなくて。めっちゃ震えてますけど」
「ふ、震えてなどいませんわ。これは、筋肉を高速収縮させることによる、熱エネルギーの生成実験です」
「それを震えてるって言うんだよ」
強がり以前の問題だった。唇が紫色になっている。
どうやら「迎えの車」とやらを待っているらしいが、連絡手段であるスマホのバッテリーが切れて立ち往生しているとのことだった。
「待ってろ。いま温かいモン買うから」
「……?」
俺はなけなしの百三十円を握りしめ、自販機に向かった。
少女がヒョコヒョコと、生まれたての子鹿みたいな足取りでついてくる。
「これが……自動販売機……」
「初めて見たのか?」
「概念は知っています。硬貨を投入し、等価交換で物資を排出する無人店舗ですよね? 至近距離で見るのは初めてです」
彼女はまじまじと、自販機のサンプル棚を見上げた。
そして、眉間にシワを寄せる。
「……理解できません」
「何が?」
「なぜ『あたたか~い』と『つめた~い』が隣接しているのですか? これでは内部の断熱材にかかる負荷が非効率的です。それにこんなに沢山並んでいては、どれを選べばいいのか――」
「文句多いな! いいから飲むんだよ、温まるから!」
俺は小銭を投入し、一番端のボタンを押した。
(あ、いつもの調子で缶コーヒーを選んじゃった。紅茶の方が良かったか? まあいいか)
ピッ。ガコン!
取り出し口に重い音が響く。
すると少女は、ビクゥッ! と肩を跳ねさせた後、なぜか真剣な顔で、いま俺が押したプラスチックのボタンを凝視し始めた。
「……今の、何?」
「何って、ボタンだけど」
「押下した瞬間の、指先に伝わる反発……。ピアノの鍵盤より重く、タイプライターよりは軽い。そしてクリック音と共にランプが点灯する、このフィードバック……」
彼女はおもむろに、白い指先を伸ばした。
売り切れランプの点いている隣のボタンを押す。
ポチッ。
「……っ!」
少女の瞳が輝いた。
ポチッ。ポチッ。ポチポチポチ。
「おい」
「素晴らしい……。このバネの弾性係数、絶妙です。指先の神経を通じて、脳の前頭葉が直接マッサージされているような快感があります」
「あのー、お嬢様?」
「これは単なるスイッチではありません。現代人のストレスを解消するために計算され尽くした、至高の『無限プチプチ』装置……!」
(無限プチプチは知ってるのな)
ポチポチポチポチポチ!
無表情のまま、ものすごい速度で連打し始めた。
俺は溜息をつき、彼女の細い手首を掴んで止める。
「ストップ。それ以上押しても何も出ないし、後ろに人が並んだら迷惑だろ」
「はっ……!」
我に返った少女が、コホンと咳払いをする。耳まで赤くなっていた。
「こ、高尚な機構の解析を行っていただけです! 決して、指遊びが楽しかったわけではありませんわ!」
「はいはい。ほら」
俺は取り出し口から缶コーヒーを掴み出すと、それを不意打ち気味に、少女の冷え切った頬に押し当てた。
「ひゃうっ!?」
「熱源だ。コーヒーの味なんてどうでもいい。今はそれが、130円で買える最強の懐炉だ」
少女は目を丸くし、渡されたスチール缶を両手で包み込んだ。
冷え切った指先から、熱が伝わっていく。
「……温かい」
「だろ?」
「陶器のティーカップでは得られない、直接的な熱伝導……。物理法則は嘘をつきませんね」
彼女は納得したように頷くと、プルタブに指を掛けようとした。
「……構造は理解しています。テコの原理を利用し、支点を中心に……」
だが、カチカチと爪が当たる音がするだけで、缶は開かない。
寒さで指がかじかみすぎて、力が入らないのだ。
彼女は震える指先で何度もトライするが、プルタブはびくともしない。
「……機能不全です。指先の神経伝達が遅延しています」
「貸して」
見かねた俺は、彼女の手から缶を取り上げた。
指を掛け、軽い力で引き上げる。
プシュッ。
小気味よい音と共に、湯気がふわりと立ち上った。
「ほら」
「あ……」
手渡すと、少女は少しだけバツが悪そうに、けれどほっとした顔で缶を受け取った。
「……感謝します」
彼女は湯気の立つ飲み口に口をつけた。
一口、こくりと飲む。
顔をしかめるかと思ったが、彼女はほう、と白く長い息を吐いた。
「……苦い。それに、鉄の味がします」
「文句言うなら返せ」
「ですが……悪くありません。この安っぽい味も、今の私には『生存の味』として記録されました」
そう言って、彼女が初めて年相応に微笑んだ、その時だった。
キィィィィィッ!
静寂を引き裂くブレーキ音と共に、目の前に黒塗りの高級セダンが滑り込んできた。
ヘッドライトが俺たちを強烈に照らし出す。
「確保ォォッ!!」
「お嬢様ァァァッ!!」
ドタドタと車から降りてきたのは、サングラスに黒服の男たち。どう見てもカタギではない。
俺は思わず後ずさった。
やはり、関わってはいけない相手だったのだ。
一人の黒服が、少女の元へ駆け寄り、最敬礼をする。
そして彼女の手にある空き缶に気づき、顔色を変えた。
「なっ、お嬢様! そのようなドブ水を! 直ちに処分を……貸してください、私が捨てて参ります!」
黒服が手を伸ばす。
だが。
「――触らないで」
氷点下の声だった。
さっきまでボタンをポチポチして遊んでいた少女とは、別人のような威圧感。
彼女は空き缶を、まるで王笏か何かのように胸に抱いた。
「これは、貴重なサンプルです。私が持ち帰ります」
「は、はっ! 失礼いたしました!」
少女は黒服たちを従え、車の後部座席へと向かう。
そして乗り込む直前、一度だけ振り返った。
ドレスの裾を優雅につまみ、完璧なカーテシー(淑女のお辞儀)を俺に見せる。
「貴方のおかげで、有意義な観測ができました。……この『鉄の味』と温もりは、忘れません」
バタン、と重厚なドアが閉まる。
車はそのまま、夜の闇へと消えていった。
あとに残されたのは、冷たい風と、再び一人になった俺だけ。
「……完璧な所作だったな」
俺はポケットに手を突っ込み、小さく苦笑した。
住む世界が違うってのは、こういうことか。名前も聞かなかったが、俺みたいな貧乏学生が関わっていい相手じゃない。
さようなら、変なお嬢様。
もう二度と、会うこともないだろう。
次回 第2話:翌日、クラスに転校してきた彼女が、なぜか空き缶を筆箱として使っている件




