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聖環  作者: 北寄 貝


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北の港 - 3

語り:ミレイユ・カロ

 思いがけず手に入ったまとまった金を手に、私たちがまず向かったのは服屋だ。

 四日間の航海で身にまとった服は、磯の匂いがすっかり染みついている。

 洗えば使えないこともないのだろうが、今日明日くらいは、別のものを身に着けたい気分だった。

 最低限の着替えを新しく揃え、私たちはクラリスが教えてくれた温泉宿へ向かった。


 街外れに建つその宿は、ひと目で「格が違う」と分かる佇まいだった。

 石造りの外壁は手入れが行き届き、正面には大きな車寄せ。

 出港前や寄港後に貴族や大商人が利用するのだろう。

 無駄のない威厳がある。

 中へ入ると、広いロビー、磨かれた床。静かで、落ち着いていて、港の喧騒が嘘のようだった。

 案内された客室もまた、寝台は広く、調度は上質で、窓からは湯気の立つ中庭が見える。

 荷を下ろすと、私たちは言葉を交わす間もなく、真っ先に浴場へ向かった。


 幸い、温泉は男女別になっている。

 まずは、身体を洗う。

 磯の匂いと汗、そして四日分の疲れ。

 念入りに洗い流し、大きな浴槽に身を沈めた瞬間――思わず息が漏れた。

 温かさが、じわじわと身体の奥まで染みてくる。

 張りつめていたものが、音もなくほどけていく感覚。

 隣で湯に浸かるセラも、同じだったのだろう。

「……最高ね。」

 それきり、私たちは何も言わず、目を閉じて湯に身を委ねた。

 考えることも、感じることも、ただゆるやかに溶けていく。

 名残惜しさを振り切るように、のぼせる前に浴場を出た。


 一度部屋に戻り、別室に泊まっているダリウスと合流して、食堂へ向かう。

 ダリウスは席に着くなり、迷いなく料理を注文し始めた。

 香草で焼いた牛肉のロースト、白身魚のムニエル、貝の旨味が詰まったパエリア、大皿いっぱいのサラダ。

「……こんなに食べられるの?」

 セラが半ば呆れたように聞くと、ダリウスは即座に言った。

「食べる。」

 運ばれてきた料理は、どれも見ただけで質の良さが分かる。

 肉は火入れが絶妙で、噛むたびに旨味が広がる。

 魚は表面が香ばしく、中はふっくら。

 パエリアは貝の出汁が米一粒一粒に染み込み、塩気も控えめだ。

 サラダの野菜は瑞々しく、油も新鮮だった。

 気がつけば、三人とも無言で手を動かしていた。

 最初は多いと思った料理も、いつの間にか皿が空になっていく。

 満腹感とともに、幸せな気分が広がった。

 皿が下げられ、普通ならワインでも頼むところだろうが、誰も酒には手を伸ばさない。

 代わりに白湯を飲む。


 一息ついたところで、ダリウスが改まった声で言った。

「俺たちはアルビオン島には着いたが、ここが目的地じゃない。」

 セラと私は、自然と姿勢を正した。

 ダリウスは、どこから手に入れたのか、アルビオン島の地図を広げる。

「アルビオンの地理は詳しくないが……ここがハルフォード港だ」

 指先が港を示し、次に、ずっと離れた場所を指す。

「目的地は、カンタベリオン司教領だ。」

 地図を見ても、話を聞いても――

 歩いてどうこうなる距離ではないことだけは、はっきり分かる。

「……ということは」

 セラが、少し嫌そうに言った。

「また船?」

 私も同じことを考えたが、しばらくは船という言葉を聞きたくなかった。

「方法については、クラリスに相談したほうがいいだろう。」

 ダリウスの言葉に、温泉と食事で満たされていた幸福感が、すっと薄れていく。

「ミレイユ。君の目的地は、カンタベリオンでいいのかい?」

「……私の旅の目的は、セラについていくことです。」

「分かった。」

 それ以上、何も問われなかった。

 セラが何か言いかけ、言葉を飲み込み、微笑む。

「カンタベリオンの件が片づいたら……あなたの故郷に、みんなで行きましょ。」

 それは、かなり難しいのではないか――そんな予感が胸をよぎったが、私は微笑み返した。

「いいですね。」

 ダリウスが黙り込んだまま考え込んでいる。

「どうしたの?」

 セラが声をかけると、ダリウスはしばらく逡巡し、腹を決めたように顔を上げた。

「ここからは、君の旅だ。俺は君についていく。」

 嫌な予感がした。

「その前に、教えてほしい。」

 ――来る。

「カイルとは、何者なんだ?」

 セラの表情が、凍りついた。

 胸が苦しくなる。

 それは、訊かないでほしいことだ。

「俺がカイルという者を知る必要はないのかもしれない。

 だが、君の旅についていくなら、避けて通れないと思う。

 君を傷つけるつもりはないが……もし話せるなら……話してほしい。」

 長い沈黙。

 やがてセラは、静かに言った。

「……こんな人ごみの中で話したくはないわ。

 私たちの部屋についてきて。」

 席を立ち、ダリウスが後に続く。

 私は、その背中を見送りながら思った。

 聞きたくない。

 セラの心の傷を、これ以上えぐるような話は。

 逃げ出したい気持ちで、胸がいっぱいだった。

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