北の港 - 1
語り:ミレイユ・カロ
フランカ帝国海軍との海戦から四日。
一日中甲板で過ごす、身体と気力をじわじわ削られる船旅が、ようやく終わった。
ハルフォード港に船が入ったとき、まず鼻を突いたのは、潮と人と獣脂の匂いだった。
懐かしいはずのアルビオン島の空気なのに、帰ってきたという実感は薄い。
ここはカンタベリオンからずっと北に位置する港湾都市で、私の知っている景色とは少し違う。
しかも今日は、六隻もの船がほぼ同時に入港した。
桟橋では水夫たちが怒鳴り合い、荷を下ろす音が重なり、人の流れが交錯している。
港全体が落ち着きを失い、息をつく暇もないほどせわしなかった。
その喧騒の中を、ひときわ目立つ一団が歩いていく。
手に枷をはめられた男たち。
列を乱さぬよう押し立てられ、俯いたまま進むその顔には、生気らしいものが見当たらなかった。
海戦で敗れ、船倉に閉じ込められたまま、ここまで連れてこられたフランカ帝国兵たちだ。
正直に言えば、この四日間の船旅は、私にとっても耐えがたいものだった。
眠れず、落ち着かず、甲板の冷たさと風にさらされ続ける生活。
けれど、彼らの姿を見たとき、不意に思ってしまった。
(……それでも、私はまだましだったのね)
そう思ってしまった自分に、少しだけ罪悪感を覚えながら、視線を逸らす。
ふと隣を見ると、ダリウスが帝国兵の列に背を向け、海を見ていた。
波は穏やかで、まるで先日の惨状が嘘だったかのようだ。
セラが、いつの間にかダリウスの横に立ち、同じように海を眺めている。
「アルビオンでは……捕虜はどうなるんだ?」
ダリウスの声は低く、抑えられていた。
セラはすぐには答えず、少し間を置いてから口を開いた。
「一概には言えないわ。」
前置きしてから、淡々と続ける。
「島の北部では、捕虜を奴隷商に売ることもあると聞いている。
……鉱山送りね。死ぬまで働かされる」
ダリウスは、小さく息を吐いた。
それ以上、何も言わない。
セラもまた、言葉を継がなかった。
やがて、帝国兵の列は建物の陰に消え、視界から完全に見えなくなる。
「……行ってしまいました。」
私はそう告げた。
ダリウスはゆっくりと港のほうに向き直り、
「仕方のないことだ。」
と、ぽつりとこぼした。
その言葉が、誰に向けられたものなのかは、分からなかった。
寄港の手続きやら、船の手配やらで慌ただしくしていたクラリスが、ようやくこちらに近づいてくる。
「お疲れさま。船旅はどうだった?」
セラが即座に答えた。
「二度とごめんだわ。」
それを聞いて、クラリスは声を立てて笑った。
「でしょうね。顔に書いてあるもの。」
ひとしきり笑ったあと、少しだけ表情を引き締める。
「せっかく故郷に戻ってきたところ悪いんだけど……いろいろあるの。ついてきてくれる?」
そう言って、港から街のほうへ歩き出した。
私たちは言われるまま、その後を追う。
街並みは、私の知るカンタベリオンとは違っていた。
木組みの家々が密集し、二階部分が通りにせり出している。
石畳はところどころ摩耗し、商人の倉庫や酒場が軒を連ねていた。
川に近いせいか、湿った空気と、魚の匂いが混じっている。
活気があり、荒っぽく、港町らしい景色だ。
しばらく歩くと、通りの先にひときわ目を引く建物が見えてきた。
石造りで、周囲よりも背が高い。正面には、堂々とした看板が掲げられている。
――フォスター海運。
フォスター海運の建物の前に差しかかった、そのときだった。
「――クラリス!」
張りのある男の声が響いた。
思わず足を止めて振り向く。
建物の正面、石段の上に、ひときわ目を引く男が立っていた。
背は高く、肩幅も広い。
厚手の外套の下からでも分かるほど、鍛え上げられた体躯をしている。
海風にさらされても微動だにしない立ち姿は、港の風に馴染んだ、海の男らしい自信に満ちていた。
一瞬遅れて、クラリスが息を呑む。
「……トマス!」
次の瞬間、彼女は何のためらいもなく駆けだしていた。
「え?」
声にならない声を上げる間もなく、クラリスは男――トマスの胸に飛び込み、勢いよく抱きつく。
男はその体をしっかりと受け止め、強く抱き返した。
そして――。
躊躇も遠慮もなく、二人は唇を重ねた。
一度では終わらない。
離れてはまた求め合うように、何度も、確かめるような熱を帯びた口づけを交わしている。
「…………」
セラもダリウスも、完全に言葉を失っていた。
私も、数拍遅れて我に返る。
(……これは、見ていいものではないよね)
そう思った瞬間、反射的に二人に背を向けていた。
視界の端では、セラが同じ判断をしたらしく、わずかに咳払いをして顔を逸らしているのが分かる。
ダリウスはというと、どうしていいか分からない様子で、気まずそうに空を仰いでいた。
背後からは、クラリスの笑い声と、男の低い声が重なって聞こえてくる。
港町の喧噪に溶け込みながらも、そこだけ切り取られたような、あまりに私的で、あまりに幸せそうな空気だった。




