船上の夜 - 1
語り:ミレイユ・カロ
夜の海は、昼間の喧噪が嘘だったかのように静かだった。
甲板に立っていると、潮の匂いとともに、どこか焦げたような匂いがまだ残っているのが分かる。
血の匂いではない。
ただ、人が大勢いた場所が急に空いたときに残る、あの独特の気配だ。
フランカ帝国の船は三隻。
一隻はノルドハイムの白兵戦でほぼ壊滅し、もう一隻はハーピーに蹂躙された。
残る一隻は、抵抗を諦めて投降した。
ノルドハイム側も無傷ではない。
一隻はほぼ全滅で、船体だけが海に浮かんでいる状態だった。
それでも、生き残った者たちは止まらない。
投降したフランカ兵は船倉に押し込められ、ノルドハイムの水夫たちが手分けしてフランカの船を操縦する。
慣れない船でも、帆と舵は嘘をつかない。
結局、六隻の船が一つの船団として連なることになった。
船が増えたおかげで、人の詰まり具合はずいぶんとましになった。
出航したときの、息をするのも億劫な圧迫感は薄れたと言っていい。
それでも――。
また甲板で眠る日々が続くのだと思うと、胸の奥が重くなる。
波の音を間近で聞き、風に晒され、夜露に濡れる生活。
一日程度で慣れるはずもない。
船は風を受けて、西へ進んでいた。
私は船縁にもたれ、夜風を正面から受けた。
冷たいはずなのに、頬がひりひりとする。
昼間の緊張が、まだ体の奥に残っているせいだろう。
このまま順調にいけば、アルビオン島に着く。
それが今回の目的だった。
けれど、その先は?
カンタベリオン司教領に戻り、アルヴェイン家に再び仕えるのか。
それとも故郷へ帰るのか。
まったく違う人生を選ぶのか。
セラはどうするのだろう。
ダリウスは――。
考えが巡るばかりで、どれ一つとして「これだ」と思える道は浮かばなかった。
「考え事か?」
声をかけられて、はっとする。
振り向くと、ダリウスが立っていた。
片手に、オレンジを持っている。
ハーピーとの戦いの直後、彼はひどく消耗していた。
癒しの腕輪に無理をさせた反動が、誰の目にも分かるほどだった。
だが今は、表情に疲れは見えない。
「食べるか?」
差し出されたオレンジを見て、私は少し考えてから言った。
「……半分こにしませんか?」
「いいな。」
ダリウスは短く答え、慣れた手つきで皮を剥いた。
半分に割り、その片方を私に差し出す。
「ありがとうございます。」
受け取ると、柑橘の香りが夜気に混じった。
甘くて、少し酸っぱい。
「お酒じゃないんですね。」
「喉が渇くだろ。なるべく飲みたくない。」
なるほど、と思う。
二人で甲板に並び、星を見上げながらオレンジを食べた。
果汁が指に垂れるのも構わずに。
「……セラは、まだ寝てるのか?」
「はい。相当、疲れたのだと思います。」
「疲れだけじゃないだろうがな。」
セラの戦い方は、癒しで支えなければ成り立たない戦い方だった。
あんな無茶な戦い方をした代償が疲労だけであるはずがない。
「ダリウスは……大丈夫なのですか?」
「たいして働いていないからな。」
「ご謙遜を。」
思わずそう言うと、彼は小さく笑った。
視線の先には、甲板の端で眠るセラの姿がある。
そのそばに、クラリスが座り込んで、時折様子を確かめるように身をかがめていた。
ダリウスはしばらく黙ってから、言った。
「このまま順調にいけば、アルビオン島に着くな。」
「はい。」
「それから、どうするつもりだ?」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「……私も、それを考えているのですが。
思いつかないのです。」
「思いつかない?」
「もともとは、アルヴェイン家に戻るつもりでした。
でも……今となっては、それがかなうのかも分かりませんし。」
「確かに。」
ダリウスはうなずいた。
「ダリウスは、どうするのですか?」
「俺も、わからない。」
そう言って、彼はオレンジを一房、口に放り込んだ。
「この旅でな……俺だけが、目的を持っていない気がする。」
ゆっくりと言葉を選ぶように、続ける。
「エリアスを倒す意思も、力もない。
君たちを守る力も、十分じゃない。
君たちの役に立てているのかも、分からない。」
私は、はっとした。
「……力がないだなんて、そんな」
言いかけて、言葉に詰まる。
そのとき、ふと思った。
そういえば、ダリウスはなぜ、ここまで一緒に旅をしてくれているのだろう。
命の危険を冒すほどの理由は思い当たらない。
それでも彼は、ここにいる。
夜風が、オレンジの香りをさらっていった。




