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聖環  作者: 北寄 貝


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92/111

海戦 - 11

語り:ミレイユ・カロ

 金色の翼が、船の上に影を落とした瞬間――空気の温度が一段下がった気がした。

 ハーピー・クイーンは、風の流れを乱さないまま甲板に下りてきた。

 潮風が羽根を煽るのに、彼女の輪郭だけが揺れない。

 まるで、風が彼女を避けて通っている。

 その唇が、ゆるやかに弧を描く。

「あなた、とても素敵よ。」

 視線はセラに向けられていた。

 挑発でも嘲笑でもない。

 熱もない。

 けれど、言いようのない妖しさに背筋がぞくりとした。

 セラが返すより早く、金色が宙へ滑り出た。

 次の瞬間には、上だ。

 そして、落ちる。

 急降下――というにはあまりに綺麗だ。

 鵺が迎え撃つ。

 黒い影が風を踏み、宙を駆けて金色へ向かう。

 だが、交わるたびに差が見える。

 鵺の鉤爪が届く寸前で、ハーピー・クイーンはわずかに角度を変える。

 鵺の爪は空を裂き、すれ違いざまに金色の鉤爪が鵺の肩や翼の縁を浅く掠めた。

 ただ、削る。

 鵺の動きが、ほんのわずかに鈍る。

 それがセラの顔に出た。

 セラの体には傷も血もない。痛覚だけが共有される。

 けれど、痛みが「そこにある」ことは隠しようがない。

 息が止まり、喉が引きつる。

 血を流していないのに、負傷者の表情になる。

 クラリスが必死にセラへ手をかざす。

 癒しの腕輪が淡く光り、セラの呼吸の乱れを押さえるように力が流れ込む。

 しかし追いつかない。

 痛みが来る。

 耐える。

 また来る。

 痛みは波のように途切れず押し寄せ、息を整える暇を与えないようだった。

 鵺の旋回が大きくなった。

 追いかける線が乱れ、風の束がほどけていくのが、見ているだけの私にも分かった。

 ハーピー・クイーンが、遠くから声を落とした。

「この程度で死なないでね。」

 セラは唇を噛み、返さない。

 返せないのではない。

 返す余裕を残していない。

 鵺がまた迫る。

 金色が落ちる。

 黒い影が受け止める。

 そのたびに、セラの肩がわずかに跳ねる。

 クラリスの額に汗が滲む。

 手の震えが増える。

 それでも癒しを止めない。

 止めた瞬間、セラが折れると分かっているから。

 ダリウスが構えを解き、ちらりとクラリスの手元を見る。

 そして、決断したように一歩寄った。

「クラリス。腕輪を貸せ。」

 クラリスが目を見開く。

「で、でも……私が――」

「君はもう限界だ。俺が代わる。」

 短い。

 乱暴ですらある。

 だが、声の奥に焦りがあった。

(ダリウスが消耗したら……誰がこの場をまとめる?)

 だが、セラが崩れれば終わりだ。

 その計算が、彼の判断を押したのだろう。

 クラリスは唇を震わせながらも腕輪を外し、ダリウスへ渡した。

 ダリウスはそれを受け取ると急いで右腕に嵌め、セラの肩へ手を当てた。

「セラの中の黒い靄を消す感覚で……」

「靄が見える……こうか。」

 クラリスの指示にダリウスが答える。

 光が強くなる。

 その輝きは、私やクラリスの光の強さとは明らかに違って強いものだった。

 ダリウスが力ずくで癒しの力を過剰に発揮させているようだった。

 セラの瞳が、すっと焦点を結んだ。

 呼吸が深くなる。

 歯を食いしばるのではなく、息を取り込める顔になる。

 クラリスが膝をつきかけていたのを、私は急いで支える。

 彼女は「ごめん」とも「ありがとう」とも言わない。

 本当に限界だったのだろう。

 空で、鵺が一瞬だけ動きを止める。

 そして次の瞬間、動きが変わった。

 追いかけない。

 釣られない。

 鵺が、ハーピー・クイーンの身体そのものではなく――翼へ食いつくように迫った。

 セラが言った。短く、鋭く。

「翼よ!」

 セラが鵺へ向けた命令だ。

 鵺の鉤爪が閃く。

 金翼の羽根が、ひとひら、ふたひら――雪のように散った。

 次の一撃では、もっと派手に飛び散る。

 羽根が光を受けて舞い、落ちるまでの一瞬だけ、美しく見えてしまうのが悔しかった。

 美しいから恐ろしいのではない。

 恐ろしいものが美しく見えてしまうことが、嫌だった。

 ハーピー・クイーンが距離を取る。

 初めて「逃げる」という形になる。

 だが、逃げ切れない。

 鵺の速度が以前より増している。

 追いつきそうになるたび、鵺は翼を狙う。

 羽根が散る。金色が削れる。

 ハーピー・クイーンは落ちないように角度を変え続けるが、翼は翼だ。

 裂ければ空気を掴めない。

 高度が、速度が、少しずつ落ちていく。

「……っ」

 セラが小さく息を詰めた。

 痛覚の波が返ってきたのだろう。

 だが、崩れない。

 ダリウスの手がまだセラを支えている。

 彼の指先がわずかに震えているのが見えた。

 消耗している。

 危険な賭けが、確実に代償を生んでいた。

 そして、決定的な一撃。

 鵺が下から潜り込むように跳び、翼の根元へ鉤爪を突き立てた。

 金色の羽根が、一斉に爆ぜるように舞った。

 次の瞬間、ハーピー・クイーンの体勢が崩れた。

 空中で踏ん張ろうとするが、翼が言うことをきかない。

 上半身が前へ落ち、脚が空を掻く。

 落下。

 風が船の上を走り抜け、甲板が軋む。

 金色の影が、船体に叩きつけられた。

 翼が折れ曲がり、羽根が散り、甲板に金の筋が残る。

 彼女はすぐに起き上がろうとした。

 だが、その動きは「飛ぶため」の動きだった。

 飛べない翼が邪魔をする。

 足元が定まらない。

 鵺が降りる。

 四肢が甲板を叩き、木が鳴る。

 獣の重みが乗る。

 ハーピー・クイーンは、こちらを見た。

 表情は読み取れる距離だ。

 笑っていた。

 私にはそれがどうしてか、安堵としか言いようのない表情に見えた。

 次の瞬間、鵺の鉤爪が振り下ろされる。

 気高く美しい身体が、鉤爪に切り裂かれる。

 血が甲板に散り、金色が崩れ落ちる。

 羽根が最後にひとひら舞い、ぬれて甲板に貼りついた。

 ハーピー・クイーンはもう動かない。

 セラが膝から崩れた。

 鵺が風と共に消え去る。

 ダリウスも、その場に片膝をついた。

 クラリスは私の支えを離れ、甲板に寝転がった。

 私たちは、生き残ることができた。

 勝ったはずなのに、息がうまく吸えなかった。

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