海戦 - 11
語り:ミレイユ・カロ
金色の翼が、船の上に影を落とした瞬間――空気の温度が一段下がった気がした。
ハーピー・クイーンは、風の流れを乱さないまま甲板に下りてきた。
潮風が羽根を煽るのに、彼女の輪郭だけが揺れない。
まるで、風が彼女を避けて通っている。
その唇が、ゆるやかに弧を描く。
「あなた、とても素敵よ。」
視線はセラに向けられていた。
挑発でも嘲笑でもない。
熱もない。
けれど、言いようのない妖しさに背筋がぞくりとした。
セラが返すより早く、金色が宙へ滑り出た。
次の瞬間には、上だ。
そして、落ちる。
急降下――というにはあまりに綺麗だ。
鵺が迎え撃つ。
黒い影が風を踏み、宙を駆けて金色へ向かう。
だが、交わるたびに差が見える。
鵺の鉤爪が届く寸前で、ハーピー・クイーンはわずかに角度を変える。
鵺の爪は空を裂き、すれ違いざまに金色の鉤爪が鵺の肩や翼の縁を浅く掠めた。
ただ、削る。
鵺の動きが、ほんのわずかに鈍る。
それがセラの顔に出た。
セラの体には傷も血もない。痛覚だけが共有される。
けれど、痛みが「そこにある」ことは隠しようがない。
息が止まり、喉が引きつる。
血を流していないのに、負傷者の表情になる。
クラリスが必死にセラへ手をかざす。
癒しの腕輪が淡く光り、セラの呼吸の乱れを押さえるように力が流れ込む。
しかし追いつかない。
痛みが来る。
耐える。
また来る。
痛みは波のように途切れず押し寄せ、息を整える暇を与えないようだった。
鵺の旋回が大きくなった。
追いかける線が乱れ、風の束がほどけていくのが、見ているだけの私にも分かった。
ハーピー・クイーンが、遠くから声を落とした。
「この程度で死なないでね。」
セラは唇を噛み、返さない。
返せないのではない。
返す余裕を残していない。
鵺がまた迫る。
金色が落ちる。
黒い影が受け止める。
そのたびに、セラの肩がわずかに跳ねる。
クラリスの額に汗が滲む。
手の震えが増える。
それでも癒しを止めない。
止めた瞬間、セラが折れると分かっているから。
ダリウスが構えを解き、ちらりとクラリスの手元を見る。
そして、決断したように一歩寄った。
「クラリス。腕輪を貸せ。」
クラリスが目を見開く。
「で、でも……私が――」
「君はもう限界だ。俺が代わる。」
短い。
乱暴ですらある。
だが、声の奥に焦りがあった。
(ダリウスが消耗したら……誰がこの場をまとめる?)
だが、セラが崩れれば終わりだ。
その計算が、彼の判断を押したのだろう。
クラリスは唇を震わせながらも腕輪を外し、ダリウスへ渡した。
ダリウスはそれを受け取ると急いで右腕に嵌め、セラの肩へ手を当てた。
「セラの中の黒い靄を消す感覚で……」
「靄が見える……こうか。」
クラリスの指示にダリウスが答える。
光が強くなる。
その輝きは、私やクラリスの光の強さとは明らかに違って強いものだった。
ダリウスが力ずくで癒しの力を過剰に発揮させているようだった。
セラの瞳が、すっと焦点を結んだ。
呼吸が深くなる。
歯を食いしばるのではなく、息を取り込める顔になる。
クラリスが膝をつきかけていたのを、私は急いで支える。
彼女は「ごめん」とも「ありがとう」とも言わない。
本当に限界だったのだろう。
空で、鵺が一瞬だけ動きを止める。
そして次の瞬間、動きが変わった。
追いかけない。
釣られない。
鵺が、ハーピー・クイーンの身体そのものではなく――翼へ食いつくように迫った。
セラが言った。短く、鋭く。
「翼よ!」
セラが鵺へ向けた命令だ。
鵺の鉤爪が閃く。
金翼の羽根が、ひとひら、ふたひら――雪のように散った。
次の一撃では、もっと派手に飛び散る。
羽根が光を受けて舞い、落ちるまでの一瞬だけ、美しく見えてしまうのが悔しかった。
美しいから恐ろしいのではない。
恐ろしいものが美しく見えてしまうことが、嫌だった。
ハーピー・クイーンが距離を取る。
初めて「逃げる」という形になる。
だが、逃げ切れない。
鵺の速度が以前より増している。
追いつきそうになるたび、鵺は翼を狙う。
羽根が散る。金色が削れる。
ハーピー・クイーンは落ちないように角度を変え続けるが、翼は翼だ。
裂ければ空気を掴めない。
高度が、速度が、少しずつ落ちていく。
「……っ」
セラが小さく息を詰めた。
痛覚の波が返ってきたのだろう。
だが、崩れない。
ダリウスの手がまだセラを支えている。
彼の指先がわずかに震えているのが見えた。
消耗している。
危険な賭けが、確実に代償を生んでいた。
そして、決定的な一撃。
鵺が下から潜り込むように跳び、翼の根元へ鉤爪を突き立てた。
金色の羽根が、一斉に爆ぜるように舞った。
次の瞬間、ハーピー・クイーンの体勢が崩れた。
空中で踏ん張ろうとするが、翼が言うことをきかない。
上半身が前へ落ち、脚が空を掻く。
落下。
風が船の上を走り抜け、甲板が軋む。
金色の影が、船体に叩きつけられた。
翼が折れ曲がり、羽根が散り、甲板に金の筋が残る。
彼女はすぐに起き上がろうとした。
だが、その動きは「飛ぶため」の動きだった。
飛べない翼が邪魔をする。
足元が定まらない。
鵺が降りる。
四肢が甲板を叩き、木が鳴る。
獣の重みが乗る。
ハーピー・クイーンは、こちらを見た。
表情は読み取れる距離だ。
笑っていた。
私にはそれがどうしてか、安堵としか言いようのない表情に見えた。
次の瞬間、鵺の鉤爪が振り下ろされる。
気高く美しい身体が、鉤爪に切り裂かれる。
血が甲板に散り、金色が崩れ落ちる。
羽根が最後にひとひら舞い、ぬれて甲板に貼りついた。
ハーピー・クイーンはもう動かない。
セラが膝から崩れた。
鵺が風と共に消え去る。
ダリウスも、その場に片膝をついた。
クラリスは私の支えを離れ、甲板に寝転がった。
私たちは、生き残ることができた。
勝ったはずなのに、息がうまく吸えなかった。




