海戦 - 10
語り:ミレイユ・カロ
ノルドハイムの船が、遠くで揺れていた。
正確には、揺れているのは船ではない。
甲板の上を、褐色の影が跳ね回っている。
二匹の褐色翼が、倒れている人間を次々と引き裂いているのが、はっきりと分かった。
距離があるせいで音は届かない。
だが、動きが速すぎて、あれが戦闘ではないことは理解できる。
抵抗も追い詰め合いもない。
ただ、狩りだ。
クラリスが、喉を詰まらせた。
「ねぇ……何とかならないの……!」
助けたい。
その思いが、声から溢れていた。
私は必死に考える。
どう応えられる?
船と船の間隔は広い。
船伝いに渡ることはできない。
海に飛び込めば溺れるだけだ。
空を飛べない限り、あそこへ行く術は――ない。
それでも、クラリスの助けになりたいと思ってしまう。
思考が空回りする。
「ダリウス……どうすれば……」
縋るように言ってしまった。
ダリウスは歯を食いしばり、遠くの船を睨んだまま答えた。
「……あそこまで行けなければ、どうにもならない。」
悔しさを噛み殺した声だった。
彼にだって、分かっている。
弓の届く距離ではない。
今いる場所からでは、何もできない。
そのとき、セラが静かに口を開いた。
「クラリス。癒しの力、あとどれくらい使える?」
クラリスが一瞬、言葉に詰まる。
「……もう少しは。はっきりとは……」
限界が近い、という意味だ。
それを聞いて、セラは小さく頷いた。
「分かった。」
そして、はっきりと言った。
「鵺に行かせる。」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
視線が空へ向く。ハーピー・クイーンと向き合っていた鵺が、まだ高空にいる。
(背中を……見せるつもり?)
そう思った瞬間、胸が締めつけられた。
セラは、それを一番分かっているはずなのに。
次の瞬間だった。
鵺が、急に進路を変えた。
まるで矢だ。
空を滑るのではない。突き刺さるように、褐色翼の方へ一直線に宙を駆ける。
速い、という言葉では足りない。
空気が裂けて遅れて追いついてくる。
それを見て、ハーピー・クイーンは追わなかった。
代わりに、ふわりと上昇する。
褐色翼たちは、ようやく鵺に気づいたらしい。
二匹は別々の方向へ散った。
鵺は、左へ逃げた方を追った。
速い。
以前より、明らかに速くなっているのが、ここからでも分かった。
空の距離が、一瞬で詰まる。
もう追いつく――そう思った、そのとき。
影が落ちた。
ハーピー・クイーンだ。
上空からの急降下。三度目。
鉤爪が、鵺を捉える。
「……っ!」
セラが小さく息を詰めた。
今度は、前脚の付け根を掴まれている。
前肢を封じる位置。
先ほどの反撃を、確実に学んでいる。
逃げたもう一匹の褐色翼が、くるりと戻ってくる。
二匹で、捕まった鵺の周囲を旋回しながら、ギャーギャーと騒ぎ立てる。
嘲るように、遊ぶように。
そのとき、セラが言った。
「クラリス。」
穏やかな声だった。
「私が死なないように、頑張ってね。」
その場にいた全員が、言葉を失った。
「え……?」
クラリスが、間の抜けた声を出す。
私も、意味を考えるより先に、嫌な予感だけが背中を走った。
次の瞬間。
鵺が、体を大きく反らした。
後ろ脚――
いや、尾の付け根を強く振り上げ、宙を蹴る。
引きちぎる、という表現しか思いつかない。
鉤爪に掴まれていた部位が、強引に裂かれた。
「――あああっ!!」
セラの悲鳴が、甲板を打った。
痛覚の奔流。クラリスが叫び声を上げながら、必死に癒しの力を注ぐ。
だが、自由になった鵺は止まらない。
一拍も置かず、宙を駆ける。
虎の鉤爪が閃き、褐色の翼が裂ける。
一匹。
二匹。
ほとんど同時だった。
褐色翼のハーピーたちは、声を上げる暇もなく、ばらばらになって海へ落ちていく。
水面が跳ね、すぐに静まった。
甲板で、セラが崩れ落ちた。
私は反射的に駆け寄り、クラリスが彼女を抱き留める。
癒しの腕輪が、限界を超えた光を放つ。
これであの船の人たちは助かったはず。
けれど――
胸の奥に、冷たいものが残ったままだ。
空には、まだ金翼がいる。
鵺も、無事ではない。
(……これで、済むはずがない)
不安が胸を締めつけていた。




