港町の朝
語り:ミレイユ・カロ
朝の海は、金色に濡れていた。
波止場に並ぶ船の帆が陽を受けて光り、潮風が干した網を鳴らしている。
私たちは喧騒の先にある船に向かう。
露店では焼き魚の匂いが立ちのぼり、行商人が香辛料を広げて客を呼んでいる。
潮と油と笑い声――生の匂いが街路を満たしていた。
私は、人の多さに少し足をすくわれながら、セラのすぐ後ろを歩いていた。
護衛たちは、昨日の戦いを経ていっそう警戒を強めていた。
セラと私を囲むように歩き、前後左右の視線が絶えず動く。
ダリウスは先頭で周囲を見張りながら、時おり短く指示を出していた。
陽の光の中にいても、皆の顔には緊張の影が残っていた。
「今日は風が静かですね」
何気なくつぶやいた私の言葉に、ダリウスが短くうなずいた。
「嵐の前は、いつもそうです」
その言葉が耳に残った直後だった。
背後から、鋭い声が響いた。
「――おい!」
振り返るより早く、空気が裂けた。
世界が一瞬、逆さまに転がったように感じた。
突風――竜巻のようなつむじ風が私たちを包む。
あぁ......まただ......
視界が白く揺らぎ、足元が浮く。
体の奥がぐらりと回転し、私は石畳に膝をついた。
目の端で見えたのは、うずくまる護衛たちと、倒れ込む商人や子供たち。
周囲の音が、遠い海の底から響くように歪んで聞こえた。
「セラ様……!」
声を上げたつもりだったが、喉が乾いて音にならなかった。
その中で、ただ一人――セラだけが、風の中心に立っていた。
彼女の髪と外套が吹き上げる風に逆らうように、静かに揺れていた。
風が止んだ瞬間、地面に影が戻った。
その静けさの中で、後方の護衛が、掠れた声で叫んだ。
「こいつらが……ぶつかってきて……!」
指さす先には、二人の男が倒れていた。
どちらも粗末な外套をまとい、手には短剣。
地に伏しながらも、まだセラに向かって這い寄ろうとしていた。
セラは一歩踏み出すと、膝をつき、男の腕を払って短剣を奪った。
そして、迷いなく腰の紐で二人を縛り上げた。
その動きには恐れも躊躇もなかった。
数刻ののち、私たちの耳がようやく世界の音を取り戻した。
立ち上がると、周囲の人々が遠巻きにこちらを見ているのが分かった。
誰も近づかない。
目が合うと、祈るように視線を逸らし、足早に去っていった。
港のざわめきが、いつのまにか冷たい静寂に変わっていた。
ダリウスが縛られた男のもとへ歩み寄り、セラから短剣を受け取った。
彼の眉がすぐに歪む。
「……力を吸われる感覚がある。間違いない、魔法具だ。」
短剣の柄には、淡く黒い紋が刻まれていた。
彼は自分の弓の弦を指先で弾き、苦々しく言葉を続けた。
「私の持つこの弓の弦も魔法具だ。これは同じ感覚だ。
この短剣は、鉄の鎧も紙のように貫けるといった類のものだろう。」
彼の声には怒りが混じっていた。
「魔法具の短剣など街のゴロツキ風情が持てるものではない。
貴様らは何者だ。答えろ。」
だが男たちは、血のにじむ唇を閉ざしたまま何も言わない。
ダリウスが剣を抜き、ひとりに刃を向けた。
「これ以上黙るなら――」
「やめて。」
セラの声がそれを止めた。
彼女の瞳はまっすぐで、静かだった。
しばらくの沈黙ののち、ダリウスは刃を収めた。
そして護衛たちに命じる。
「衣を剥ぎ、縄を解け。海に放て。」
波の音が返事の代わりになった。
二人の男は冷たい海に落ち、潮にのまれていった。
浮かび上がることはなかった。
誰も言葉を発しなかった。
セラは手の中の指輪を見つめていた。
その表面が、朝の陽を受けてかすかに光る。
彼女の唇が、かすかに震えた。
「……また、あの風が。私の意志じゃないのに。」
私は何も言えず、ただその横顔を見つめていた。
風はもう吹いていなかった。
けれど、潮の匂いの奥に、まだあの異様な気配が残っている気がした。




