海戦 - 3
語り:ミレイユ・カロ
船長は、帝国兵が掛けた渡し板を蹴落とした。
軍用ラッパの余韻が空気に残る中、彼はくるりと踵を返し、甲板を横切って物陰へと走った。
さっきまで帝国船に向かって穏やかな声を張り上げていた人間とは、まるで別人だった。
――ああ、始まった。
そう思ったときには、もう周囲は動いていた。
甲板のあちこちで、伏せていた傭兵たちが身を起こす。
誰も叫ばない。
誰も走らない。
ただ、決められた位置に体を寄せ、武器を構える。
ダリウスは、すでに弓を引いていた。
構えは低く、動きは最小限。
視線だけが、相手船の甲板をなぞる。
矢が放たれた。
音は短い。
次の瞬間、帝国兵が一人、後ろへ倒れた。
悲鳴はなかった。
ただ、甲板にぶつかる鈍い音だけが聞こえた。
一瞬、相手船の甲板が静まり返る。
次いで、帝国船から怒号が上がった。
その怒号も、すぐに別の声にかき消される。
誰かが叫び、誰かが走り、武器が引き抜かれる音が重なっていく。
さっきまで油断しきっていた帝国兵たちが、慌てて戦闘態勢に入る。
盾が掲げられ、弓が構えられる。
矢が放たれた。
こちらの舷に、乾いた音が続けて弾ける。
甲板に突き刺さる矢もあった。
――近い。
板一枚で渡れる距離だ。
だからこそ、向こうは安心していたのだろう。
それでも、反撃は遅かった。
ダリウスの矢が、もう一人を倒す。
矢は続けて放たれる。
一射。
また一射。
狙われた兵は、ほとんど同じ動きをした。
体を強張らせ、何が起きたのか理解する前に、膝を折る。
数が、減っていく。
ダリウスは表情を変えない。
狙いを変え、引き、放つ。
ただそれだけを繰り返していた。
――全く迷いがないのね。
そう思ったのは、矢が三本目、四本目と放たれた頃だった。
ダリウスに対抗するように、一斉に掲げられた盾の陰から、数本の矢が同時に放たれた。
矢がこちらの舷をかすめて飛んでいき、思わず肩をすくめた。
セラもまた動き始める。
軽く一歩踏み出し、体をひねる。
スリングが円を描き、石が飛ぶ。
当たった。
金属にぶつかる、鈍い音。
兜を押さえた帝国兵が、よろめく。
もう一投。
今度は肩に当たったのか、兵は声を上げて倒れ込み、起き上がらなかった。
動きは軽やかだった。
踊るみたいに体を回しながら、石を放っている。
でも、当たる音は重い。
刃でも矢でもない。ただの石が、容赦なく人の体を叩く。
――痛いだろうな。
そんなことを考えた自分に、少し遅れて気づく。
私は、スリングを握りしめていた。
一度だけ、真似をして投げてみる。
石は、相手船の甲板に届く前に、海へ落ちた。
……だめだ。
すぐに分かった。
これでは石の無駄になる。
私は残りの石を、セラの足元に置いた。
彼女は一瞬こちらを見て、何も言わずに次の石を放った。
帝国船の甲板は、もう混乱の只中だった。
矢を受け、石に倒され、身を伏せる者と逃げ場を探す者が入り混じる。
指示を出す声は、もう聞こえない。
そのときだった。
こちらの船から、
「板を持ってこい!」
という傭兵の大声がすると、渡し板が運ばれてくるのが見えた。
重い木の板が、ぎし、と音を立てる。
傭兵たちが剣を抜き、板の前に集まっていく。
――次は、斬り合いだ。
甲板に満ちる空気が、また変わった。
私は、息を飲んだまま、その光景を見つめていた。
渡し板が、相手船の舷に叩きつけられた。
木と木が噛み合う、乾いた音。
その瞬間、待っていた傭兵たちが一斉に動いた。
誰も声を上げない。
合図もない。
ただ、前に出る。
板の上を、剣と盾が駆け抜けていく。
足音が重なり、甲板にぶつかる金属音が、さっきまでとは違う響きで鳴った。
船と船が、もう一つの足場で繋がった。
逃げ場は、完全になくなった。
ダリウスが弓を下ろしたのが見えた。
最後に一本、矢を放つ。
相手船の甲板で、兵が一人、崩れ落ちる。
それで終わりだった。
彼は弓を背に回し、剣を抜く。
動きに迷いはない。
その背中を見て、私は思う。
ここから先は、別の戦いなのだと。
甲板の中央で、最初の剣がぶつかる。
高い音。
金属が金属を弾く音が、何度も重なる。
誰かが叫び、誰かが倒れる。
海に落ちる水音が、すぐ近くで聞こえた。
セラは帝国船には乗り込まず、まだ投げていた。
混戦の外側にいる帝国兵に向けて石を放つ。
一人が倒れる。
また一人、足を取られて崩れる。
剣を持たない彼女は、前に出ない。
私も、セラと離れないようにしていた。
こちらに飛んでくる矢がなくなったので、戦況を観察する。
弓を構えていた兵が、もう見当たらなかった。
視界の中で、傭兵たちが帝国兵を押し返していく。
数の差は、もう明らかだった。
それでも、剣が交わるたび、胸の奥がひりつく。
――これが、戦争。
頭では分かっていた。
でも、目の前で見るのは、まったく別だ。
ダリウスが、一人と向き合っているのが見えた。
剣を弾き、踏み込み、相手の体勢を崩す。
短い動き。
次の瞬間、帝国兵は甲板に倒れていた。
倒れた兵を、誰も気に留めない。
戦いは、前へ進んでいく。
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。
吐く息が、震えているのが分かる。
でも、目は逸らさなかった。
ここで目を背けたら、私は、もうここに立ってはいけない気がしたから。
剣戟と怒号の中で、渡し板は、完全に“道”になっていた。
――この船は、もう戻れない。
その確信だけが、はっきりと胸に残っていた。




