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聖環  作者: 北寄 貝


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港町の宿

語り:ミレイユ・カロ

海の匂いが、部屋の奥まで入り込んでいた。

窓の外では、潮風が旗を揺らしている。


ようやく港町――ロウズヘイヴンに着いた頃には、もう夜も更けていた。

護衛の多くが傷を負い、戦える者はすでに半分もいなかった。

私も、まだ体の芯がふわふわしている。

あの風のせいだ。頭の奥がぐらりと揺れるような、あの不思議な感覚。


宿の二階。

簡素な木の机と、少し磯の匂いがする寝台。

セラはその寝台に腰かけ、指輪を見つめていた。


右手の薬指。

あれが、あの“風”を呼んだ指輪。

お守りだと聞かされていたが――もう、誰もそうは思っていない。


「……怖かったのですか?」

思わずそう口にしていた。


セラは少しだけ顔を上げた。

「怖かった、というより……分からなかったの。

 あれは私の意志じゃない。けれど、確かに私の手の中で起きた。」


私はうなずくことしかできなかった。

頭の中には、あの光景がまだ焼き付いている。

鵺――。

あの禍々しい獣。

猿の顔に、虎の足、蛇の尾。

遥か東の国にいるという伝承がある魔物だと、セラが教えてくれた。

それが風とともに現れて、黒犬の魔物を引き裂いた。


まるで、この世の理をねじ曲げるような力だった。

見てはいけないものを見たような恐怖。

あの瞬間、敵も味方も関係なく地に伏して、誰も戦う気などなくなっていた。

セラは生き残った襲撃者を赦し、「もう帰りなさい」と言った。

誰も逆らわなかった。

それどころか彼らは怯え、ある者は泣きながら武器を捨てて去っていった。


――彼らは、アルヴェイン家が治めるカンタベリオン司教領の対抗勢力だと聞いた。

ノルドハイム連邦の支援を受け、アルヴェイン家とフランカ帝国との結びつきを断とうとする者たち。

セラの父がルーメン教に傾きすぎていると恐れ、“神の罰”を下すつもりだったらしい。


けれど、神の罰を受けたのは彼らの方だった。


扉がノックされた。

振り向くと、ダリウスが立っていた。

包帯を巻いた腕を下ろし、疲れた笑みを浮かべている。


「調子はどうですか、セラ殿。」


セラは小さく頷いた。

「……問題ありません。怪我もありませんから。」


彼は近くの椅子に腰を下ろし、少しの間、沈黙した。

蝋燭の火が揺れ、三人の影を壁に映す。


やがて、彼は静かに口を開いた。

「……あのときのお振る舞い、見事でした。

 恐れながら申し上げますが、あの場で前に出られたのは、勇敢にして――危ううございました。」


セラは小さく微笑んだ。

「誰かが倒れるのを見ているより、動く方が性に合っているの。」


「それでも、ご身分をお忘れでは困ります。」

ダリウスの声は柔らかかったが、言葉の底に重みがあった。

「護衛が命を賭して守るお方が、ご自身の手で矢面に立つのは……我らの務めを無にいたします。」


セラはしばらく黙っていた。

そして、少しだけうつむいて言った。

「……あなたたちの命を無駄にしたくなかったの。」


私は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥が熱くなった。

あのとき、セラの背中を見た。

恐怖を越えて、一人で立っていた姿を。


ダリウスは小さくため息をつき、苦笑した。

「勇気には敬意を。けれど、次はお控えください。

 命令ではなく――お願いとして。」


「分かったわ。」

セラの声は穏やかで、どこか子供のようだった。


部屋の空気が、少しだけやわらぐ。


ダリウスは一息ついて、机の上の指輪に視線を落とした。


「ひとつ、尋ねてもよろしいですか。」


「……指輪のこと、ですね。」


「ええ。」

ダリウスは頷いた。

「あなたがあの時、何を見たのか。何を感じたのか。

 私には理解できない。風が吹き荒れたあと、確かに何かが現れた。

 あれは……人の魔法ではない。」


セラは視線を落とし、言葉を探すように指輪を撫でた。

「私にも分からないの。父から“お守り”としてもらっただけ。

 けれど、あの瞬間――自分が誰かに呼ばれた気がした。」


「呼ばれた?」

「ええ。風の奥から。けれど、声ではなかったわ。」


沈黙。

その沈黙に、私の背筋がぞくりとした。


ダリウスは腕を組み、思案するように言葉を続けた。

「指輪は、魔法具とみて間違いないでしょう。

 魔法具には階層があります。

 灯りをともす小品から、魂を封じる禁断のものまで。

 あなたの指輪は――おそらく伝説級の代物だ。

 聖環の逸話を信じるなら、それに近い。」


セラは顔を上げた。

「聖環……?」


「『地』・『水』・『火』・『風』・『空』の五大元素を司る指輪の伝承です。

 だが、実在は確認されていません。

 ただ――この力は、その伝説と似すぎている気がします。」


言葉の重さが、部屋の空気を沈めた。


ダリウスは小さく息をつき、少しだけ柔らかい声で続けた。

「セラ殿。帝国では、魔法具はすべてルーメン教の管理下にあります。

 首都カテドラに着けば、教会に報告し、引き渡さなければなりません。

 どんな由緒の品であっても、例外はないのです。」


セラのまつ毛が揺れた。

「没収……されるのですか。」


「形式上は、そうです。」

ダリウスは目を伏せた。

「……だが、あれほどの力を見てしまえば、私にも判断はつきません。

 あれを“人の道具”として扱っていいのかどうか。」

私はその横顔を見ながら、胸の奥が痛んだ。

この人は、主を守りながらも恐れている。

そして私もまた、同じ恐れを抱いている。


セラが微笑んだ。

「ありがとう、ダリウス。……でも、私も怖いの。

 あの風が、誰のものか分からないから。」


窓の外では、潮風が波止場の旗を鳴らしていた。

部屋の中に沈黙が落ちる。

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