敵国の港 - 2
語り:ミレイユ・カロ
フォスター海運の建物に足を踏み入れると、外の喧騒とは少し違う忙しさがあった。
荷を運ぶ人足、帳簿を抱えた事務員、声を張り上げる船乗りたち。
誰もが迷いなく動き、建物そのものが一つの生き物のように機能している。
「……大きいですね。」
私が思わずつぶやくと、セラが周囲を見渡して頷いた。
「ええ。
港町でも、ここまで一体になっているのは珍しいわね。」
受付の前で足を止めた、そのときだった。
「あれ?」
よく通る声。
「……セラ?」
呼ばれて顔を上げると、金髪の女性が小走りでこちらに向かってくる。
「やっぱり! まさかまた会えるなんて!」
「クラリス……?」
セラが一瞬きょとんとし、それから表情を緩めた。
「無事だったのね。」
「それ、こっちの台詞よ。」
クラリスはセラの前に立ち、じっと顔を覗き込む。
「怪我は? 変な追っ手とか連れてない?」
「酷い言われようね……」
セラは苦笑しながらも、どこか安心したようだった。
「あなたこそ、無事に帰れたのか心配してたのよ。」
「あら、ありがとう。
でもほら、生きてるでしょ?」
そう言って肩をすくめる。
「今はここで働いてるの。
書類運びに、伝言に、荷の確認。
要するに雑用係。」
「雑用係、にしては顔が利きそうだけど。」
セラがそう言うと、クラリスはにやりと笑った。
「まあね。」
一拍置いて、さらっと言う。
「私の名前はクラリス・フォスター。
これで分かるでしょ。」
私は思わず瞬きをした。
フォスター――この海運会社の名。
セラも、わずかに目を見開く。
「……そういうことだったの。」
「そういうこと。」
誇らしげでも、偉ぶるでもなく、
ただ事実を告げただけの口調だった。
「だから、この建物の中を案内するくらいはできるわ。」
そう言って、視線をこちらに向ける。
「今日は、何の用?」
セラは少しだけ間を置き、頷いた。
「当主に会いたいの。
……手紙があるわ。」
「手紙?」
クラリスの表情が、ほんの少しだけ真面目になる。
「分かった。
通すわ。」
それから、声を落として付け加えた。
「ただし、決めるのは私じゃない。
簡単な話にはならないと思う。」
「ええ。
承知しているわ。」
クラリスはそれを聞いて、短く頷いた。
「ついてきて。」
クラリスは迷いなく歩き出した。
事務所の喧騒を抜け、帳簿の山を抱えた事務員たちの間を縫うように進む。
途中ですれ違う者たちが、彼女を見ると一瞬だけ動きを止め、軽く会釈するのが分かった。
――雑用係、という言い方は謙遜なのだろう。
「こっちよ。」
そう言って、クラリスは建物の奥へ向かう扉を押し開けた。
途端に、空気が変わる。
外のざわめきが遠のき、足音がやけに大きく響いた。
廊下は広く、壁には航路図や港の見取り図が並んでいる。
書き込みの多さから、飾りではなく、実務で使われているものだと分かった。
「……ここ、すごいですね。」
思わず私が言うと、クラリスは肩越しに振り返った。
「でしょう?
この辺りは、うちの要みたいなものだから。」
セラは何も言わず、真っ直ぐ前を見て歩いている。
その横顔は落ち着いているようで、どこか張り詰めていた。
廊下の突き当たりに、ひときわ大きな扉があった。
厚い木製で、金具は実用本位。
威圧するためではなく、長く使うための造りだ。
クラリスは一度、扉の前で足を止めた。
「……ここ。」
そう言ってから、ちらりとセラを見る。
「言っとくけど、うちの当主は優しい人じゃないわ。
悪い人でもないけど。」
「ええ。
覚悟しているつもりよ。」
セラは短く答えた。
クラリスはそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「ならいい。」
扉をノックする。
「入れ。」
低く、落ち着いた声が返ってきた。
クラリスが扉を開ける。
部屋の中は、思っていたより簡素だった。
大きな机。
壁際に積まれた帳簿。
窓の外には、運河と船のマストが見える。
机の向こうに座る人物が、こちらを見上げた。
年配だが、背筋は伸び、目は鋭い。
豪奢さよりも、積み重ねた時間を感じさせる佇まいだった。
「客か。」
当主は、まずクラリスを見て言った。
「連れてまいりました。」
クラリスは簡潔に答える。
「お話があるそうです。」
当主の視線が、セラへ移る。
次に、ダリウス。
そして、私。
値踏みするような沈黙。
「……用件を聞こう。」
そう言われたとき、私ははっきりと感じた。
ここまで来た。
もう、引き返すことはできない。
セラが一歩、前に出る。
その手には、ヴァレリーから託された手紙があった。




