風の目覚め - 3
語り:ダリウス・エルネスト
静寂が戻った。
風は止まり、葉擦れの音さえ消えていた。
血と焦げた鉄の匂いだけが、地面に残っている。
セラは倒れた襲撃者の傍らに立ち、動かなかった。
指輪の光もすでに消えかけ、ただ鈍く光を返しているだけだった。
俺は地面に手をつき、どうにか上体を起こした。
膝が笑い、視界が揺れる。
兵たちも呻き声を上げながら身じろぎを始めた。
そのとき――
林の奥で枝を踏み割る音がした。
二人の男がふらつきながら現れる。
敵の残党だ。
だがその顔には戦意ではなく、明確な恐怖が浮かんでいた。
「……魔物だ!」
一人が叫んだ。
「ブラックドッグが出やがった!」
叫び声とほぼ同時に、黒い影が木々の間を駆け抜けた。
熊よりも大きな体躯の黒犬。
赤く燃える双眸。
光を吸い込むような黒い毛並み。
そいつは残党の一人に飛びかかり、牙で噛み砕いた。
骨の砕ける音が響き、悲鳴は途中で途切れた。
もう一人の男は腰を抜かし、這うようにこちらへよろめいてきた。
その目に映るのは、ただセラの姿だった。
「助けてくれ!」
男が叫び、セラのもとへ駆け寄ろうとする。
ブラックドッグの赤い瞳が彼女を捉えた。
唸り声が大地を震わせる。
その巨体が突進してくる。
セラは動かなかった。
腰の革袋を探り、スリングを拾い上げる。
残っていた石を握り、低く身構えた。
右腕を振り抜く。
石が放たれ、乾いた音とともに巨犬の頭部に命中した。
ブラックドッグが低く唸り、体勢を崩す。
間を置かず、もう一投。
今度は片目を撃ち抜いた。
ブラックドッグが悲鳴を上げた次の瞬間、獣の目が怒りに染まった。
赤い光がさらに強くなり、喉の奥で唸りが震える。
次の呼吸の瞬間には、もう突っ込んできていた。
「セラ!」
思わず叫ぶ。
セラは横っ飛びに跳ねた。
巨体が目前をかすめ、地面を抉って突き抜ける。
土塊が跳ね、黒い爪が彼女の頬をかすめた。
ブラックドッグが急停止し、土煙を巻き上げながら振り向く。
その瞬間、風が吹いた。
はじめは、遠くの梢がそよぐほどの微かな風だった。
だがすぐに地面の砂を巻き上げ、
それが渦となって広がっていく。
風は広く、そして速くなった。
倒れていた兵も敵も、再び苦しげに呻き声を上げた。
頭を押さえ、嘔吐し、地面に爪を立ててしがみつく。
俺も同じだった。
視界が回転し、胃の奥が裏返る。
耳鳴りが強まり、世界が軋む。
だが――ブラックドッグは微動だにしなかった。
その黒い体の周囲だけ、風が避けて流れていく。
魔物には効かないのか......。
風は次第に集まりはじめた。
まるで意志を持つかのように、
すべての気流が――セラのそばへと吸い寄せられていく。
彼女の周囲に巻き起こった風は、やがて竜巻のように立ち上がった。
木の葉が舞い、土が躍り、光の粒が散る。
そして、その竜巻の中心が裂けた。
中から、異形が現れる。
頭は猿。
胴体は狸。
手足は虎。
尻尾は蛇。
その全身を淡い風が包み、一歩ごとに空気が震えた。
鵺――
伝承の中でしか語られないはずの、神話の獣が、現実に現れた。
ブラックドッグが吠えた。
鵺も応えるように唸り声を上げる。
その咆哮がぶつかり合った瞬間、空気が裂け、砂が跳ね上がった。
ブラックドッグが飛びかかる。
鵺は一歩も退かず、虎の脚で張り飛ばす。
その一撃で、闇の巨犬は宙を舞い、地に叩きつけられた。
さらに追撃。
鵺の爪が閃き、ブラックドッグの体を容易く引き裂く。
赤黒い血が土を染め、獣の断末魔が街道に響く。
鵺は一度だけ低く鳴いた。
そして、身を包む風が再び渦を巻く。
その姿は溶けるように消え、残ったのは静けさだけだった。
セラはその場に立ち尽くしていた。
右手にはまだスリングが握られている。
指輪の光は完全に消えていた。
俺は足を引きずりながら彼女へ近づいた。
喉が焼けるように乾き、息が乱れる。
目の前の光景が現実かどうか、判断できなかった。
魔物を倒したのは風か。
あの獣か。
それとも――彼女自身なのか。
どれが人で、どれが魔なのか。
もう分からなかった。
あの瞬間、世界の境が崩れたように思えた。
だが、俺はまだ知らなかった。
真の魔物が、どこにいるのかを。




