神使と呼ばれて - 5
語り:ミレイユ・カロ
村長の家を飛び出したものの、行く当てなど、どこにもなかった。
気づけば、私の足は、さきほど三人で話していた丘の上へ向かっていた。
腰を下ろし、ただ、海を眺める。
事態を受け入れようとしているのか、頭から追い出そうとしているのか――
自分でも、よくわからない。
思考は、どこかで途切れ、ただ、ぼんやりと時間だけが過ぎていく。
ふと、カンタベリオンの屋敷の一室が、脳裏に浮かんだ。
窓辺に立ち、風に吹かれているセラの後ろ姿。
二年前の出来事以来、セラは、ああして窓辺に立つことが多くなった。
感情を表に出すことも減り、まるで、自分を風に預けて生きているように見えた。
エリアス・ヴァルメインとの婚約が決まったときも、彼女は、それを静かに受け入れようとしていた。
(……感情なんて、放り投げてしまえばいいのかしら)
そうすれば、何も苦しまなくて済むのだろうか。
そんなことを考えながら、しばらく、動かずにいた。
「……神使様?」
不意に、声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのはロニーだった。
その隣には、見覚えのない若い女性が立っている。
慌てて立ち上がる。
「あ、私……ミレイユと言います。」
「ロニーです。」
彼は改めて名乗り、隣の女性も小さく頭を下げた。
「ユリ、と申します。」
ユリは一度、私を見て、それからすぐに視線を伏せた。
期待しているのか、怯えているのか――
そのどちらでもあるように見えた。
「こんなところで……どうしたのですか?」
ロニーの問いに、私は正直に答えた。
「……どうしようもなくて。
だから、ここにいます。」
ロニーは、少し間を置いてから言った。
「親父から……聞きましたか。」
「はい。」
「……そうですか。」
彼の表情が、陰る。
ユリが、そっとロニーに寄り添った。
二人の距離感を見て、私は、察してしまう。
「お二人は、どういったご関係で?」
尋ねると、ロニーは、しばらく黙ってから答えた。
「……恋人です。駆け落ちするつもりでした。」
ロニーは、あまり多くを語らなかった。
けれど、言葉の端々から、私は、これまでの出来事を自然と組み立てていた。
ケルピーが現れたとき、村長は村のためにと、男の生贄として息子であるロニーを指名した。
ロニーの様子から、それを拒まなかったのだろうと、私は思った。
そして、生贄がもう一人必要だと告げられたとき、名乗り出たのが――ユリだった。
二人は、互いの関係を伏せたまま、一緒に死ぬつもりだったのだ。
ケルピーが倒され、生贄の話が消えたことで、二人は救われたはずだった。
けれど今度は、神使とロニーの結婚話が、村の都合で持ち上げられた。
村のために死ぬ覚悟はあっても、生き方まで他人に決められる理由は、どこにもない。
ロニーが怒り、ユリが怯えるのも、無理のないことだと思えた。
(……何もかも、うまくいかないものね)
「安心してください。」
私は、はっきり言った。
「私は、ロニーさんと結婚するつもりはありません。」
ユリの顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「いえ……どういたしまして。」
そう答えながら、自分でも思う。
(何なんだろう……この会話は)
「もし……」
私は続けた。
「私が結婚しないと宣言すれば、お二人は、この村に残るのですか?」
「そのつもりです。」
「でも、村長さんが、あきらめるでしょうか。」
ロニーとユリは、言葉に詰まった。
そのときだった。
背後から、強い風が吹き抜けた。
振り向くと、青黒い影――鵺が立っている。
ロニーとユリが、息を呑む。
(……鵺が、ここにいるということは)
そう思った瞬間。
「ミレイユ!」
丘のふもとから、二人の姿が見えた。
セラと、ダリウス。
セラは、一目散に駆け寄り、私を抱きしめた。
「……ごめんなさい。」
声が、震えている。
涙ながらに、続けた。
「あなたが飛び出したあと、村長が言ったの。
“神使様は、この村にいるのが幸せなのです”って。」
抱きしめる腕に、力がこもる。
「そのとき……自分が、村長と何も変わらないって気づいた。」
セラは、嗚咽をこらえながら言った。
「ミレイユが、何を幸せだと思うかを決めるべきなのに……
私は、それを奪ってた。」
胸が、いっぱいになる。
「……私にも、何が幸せなのかは、わかりません。」
それでも、言葉にする。
「でも……今の私が望むのは……」
息を吸って、はっきり言った。
「セラと、ダリウスと、アルビオン島に帰ることです。」
「……ありがとう。」
セラは、さらに強く、私を抱きしめた。
私の目からも、涙があふれてくる。
「アルビオン島に、行かれるのですか?」
ロニーが、恐る恐る尋ねた。
「そうだ。」
ダリウスが答える。
「そのために、まずはアムステルへ向かう。」
「私たちに、何かお手伝いできることはありますか?」
「君たちが?」
ダリウスが、意外そうに眉を上げる。
私は、二人のいきさつを簡単に話した。
ダリウスは、少し考え、決断したように言った。
「俺たちは、陸路でアムステルへ向かう。
だから、地図と……少しの食料がほしい。」
「用意できます。」
ロニーは、即答した。
「明日の朝までに、できる?」
セラが尋ねる。
「急げば、何とか。」
「じゃあ、急いで。
用意できたものはそこの木に括り付けておいて。」
セラは、真剣な顔になる。
「それと……明日、私たちが村を去るまで、二人とも、姿を見せないで。」
「……わかりました。」
ロニーとユリは、頷いた。
セラは、私とダリウスを見る。
「この村をどうやって出るか……みんなで考えましょう。」
その声には、もう迷いはなかった。




