神使と呼ばれて - 1
語り:ミレイユ・カロ
「――魔化!」
その言葉を口にした瞬間のことは、ほとんど覚えていない。
胸の奥が熱くなったような気がして、次の瞬間には、足元が抜け落ちる感覚があった。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは、天井の木目だった。
古い小屋の、低い天井。
それを認識するまでに、少し時間がかかった。
「……ミレイユ?」
セラの声。
続いて、ダリウスの顔が視界に入る。
二人とも、ひどく安堵したような表情をしていた。
どうやら、私はずいぶん心配をかけてしまったらしい。
けれど――
「何が起きたのですか?」
自分でそう口にして、本当に何も覚えていないことに気づいた。
セラは一瞬、言葉に詰まったあと、はっきり言った。
「あなたが……魔物を二体、倒したのよ。」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
まるで、冗談を言われたような気分だった。
「ケルピーと……
それから、海藻の塊みたいなの。
ダリウスはグリーンマンと呼んでたけど。」
セラは真剣だった。
ダリウスも、否定しない。
けれど、どうしても実感が湧かない。
自分が、そんなことをするはずがない。
――私は、戦える人間ではない。
「……嘘ですよね。」
正直な感想だった。
セラは、困ったように笑ったあと、私の手を握った。
「お願いだから……もう、指輪の力は使わないで。」
嘘ではないらしい。
セラの言葉に、胸が少し痛んだ。
「わかりました。」
そう答えて、右手の指輪を外そうとした。
けれど。
「あれ……?」
指輪は、びくともしなかった。
引いても、回しても、外れない。
セラが、静かに呟いた。
「……私と、同じになっちゃったね。」
その声音は、とても切なそうで、私はそれ以上、何も言えなかった。
少しして、朝食の準備ができた。
セラとダリウスが用意してくれた、貝のスープ。
湯気の立つ椀を受け取ると、潮の香りが鼻をくすぐる。
一口飲んで、思わず息を吐いた。
「おいしい!」
体の奥まで、じんわりと温まっていく。
幸せだ、と思った。
こんな状況でも、そう感じてしまう自分が、少し可笑しい。
ただ。
「ねえ、見て見て。」
セラが、面白がるように見せてきた材料を見て、言葉に詰まった。
石か、魔物の一部と言われても信じてしまいそうな、黒くて、いびつな――カメノテ。
「これが……これですか?」
「そう。」
味は確かにおいしかったが、姿を見てしまうと、少し複雑な気分になる。
朝食を終え、私たちは小島を出港した。
漁師たちの話では、このままノルドハイム連邦の漁村へ向かうという。
もしアルビオンへ行きたいなら、そこからさらに進む必要があるらしい。
船で一日、あるいは徒歩で三日ほどかけて港湾都市アムステル――水路と商業で栄えた大きな街へ行き、そこからアルビオン北部のハルフォード港へ向かう船に乗る。
「ただし……四日以上の航程になる。
船乗りだって尻込みする日数だ。
普通の人間には、正直きつい。」
そう忠告された。
私たちは、顔を見合わせただけで、まだ答えを出さなかった。
航行は、驚くほど順調だった。
昼下がり、霧の向こうに陸影が見えたとき、
漁師の一人が声を上げた。
「ノルドハイムの漁村だ。」
ほっと息をついた、その直後。
船着き場に、複数の船が停まっているのが見えた。
それだけなら、何もおかしくない。
けれど。
「人が……多くない?」
二十人近い人影が、まるでこちらの船を待っているかのように集まっている。
ダリウスが、漁師に尋ねた。
「これは……どういうことだ?」
「わからねぇ。
こんな出迎え、初めてだ。」
セラが、無言でスリングを構える。
ダリウスも、弓に手を伸ばした。
すると、もう一人の漁師が、慌てて言った。
「待ってくれ。
そんな物騒なものは、見せない方がいい。」
出迎えの人だかりの中には、棒のようなものを手にしている者もいる。
敵意か、好奇心か。
それとも、まったく別の何かか。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(何が……始まるのかしら)
私は、右手の指輪に触れながら、遠ざかりきらない不安を、静かに噛みしめていた。




