航路を開く - 4
語り:ダリウス・エルネスト
海藻が、引く。
ただ絡みつくだけではない。
波と一緒に、身体ごと持っていこうとする力だ。
脚が浮き、岩に掛けていた足先がずれる。
慌てて指を突き立て、爪が岩を噛んだ。
(……沈める気だ)
息を吐くたび、喉に塩の味が残る。
剣は握っているが、振るえる間合いがない。
下手に動けば、そのまま海へ引きずられる。
視界を走らせる。
鵺が――立ってはいる。
だが、重い一撃を受けたのは明らかだった。
踏ん張りが利かず、呼吸も荒い。
セラは、動けない。
そして――
ミレイユが、漁師たちに声を張り上げている。
(……指示を出している)
正しい。
漁師は戦えない。船を動かせる人間を失うわけにはいかない。
だが、その判断の速さが、別の不安を呼び起こした。
視界の端で、ミレイユが肩掛けのポーチを探る。
(やめろ――)
光が、見えた。
指輪。
「やめろ!!」
声が、喉を突き破った。
岩にしがみついたまま、叫ぶしかなかった。
「ミレイユ!!」
セラも気づいた。
「……だめ……っ、やめて……」
声は掠れ、ほとんど風に消えた。
ミレイユは、止まらない。
右手に指輪をはめ、
岩場にしっかりと足を置く。
そして、掲げた。
「――魔化!」
光が弾ける。
骨が鳴り、肉が盛り上がり、人の輪郭が押し潰されていく。
喉の奥から、空気を引き裂くような咆哮が響いた。
ウェアウルフ。
――ラドの時と同じだ。
そう思った、その直後。
胸の奥に、説明のつかない違和感が走った。
理由は、まだ分からない。
獣は、迷いなくケルピーへ向かった。
ケルピーも応じるように身を起こし、前脚を大きく振り上げる。
踏み潰すつもりだ。
だが、ウェアウルフは速い。
振り下ろされる直前で身を滑らせ、すれ違いざまに鉤爪を叩き込む。
肉を裂くような、嫌な音。
ケルピーが悲鳴を上げ、海面を蹴って距離を取る。
次の瞬間、ウェアウルフがこちらへ向いた。
数歩で距離を詰め、俺の身体を引いていた海藻をまとめて引き裂く。
さらに、海から伸びる海藻を掴み、力任せに陸へ叩きつけた。
――だが。
叩きつけられた塊は、地面で蠢き、形を変える。
人のように、起き上がった。
(グリーンマン……)
幼い頃に聞いた、おとぎ話の怪物。
植物が人の形を取る存在。
考える間もない。
ウェアウルフは突っ込んだ。
海藻の腕が鞭のようにしなり、空を裂く音が走る。
だが、届かない。
鉤爪が閃き、絡み合う海藻をずたずたに引き裂く。
塊は崩れ、岸に打ち上げられた、ただの海藻に戻った。
(やはり……違う)
ラドは、力を“制御して”使っていた。
ミレイユのこれは――
制御ではない。
獣が、獣として振る舞っている。
その背後から、水を割る音。
ケルピーが、再び突進してきた。
前脚が振り上がる。
だが、振り下ろされるより早く、ウェアウルフが跳んだ。
首元へ、噛みつく。
凄まじい悲鳴。
ケルピーが倒れ、砂と水を跳ね上げて悶える。
それでも、牙は離れない。
やがて――
肉が裂ける、鈍い音。
喉元が、食いちぎられた。
ケルピーは、動かなくなった。
ウェアウルフの口元は血に染まり、肉片を吐き捨てる。
静寂。
数拍遅れて、獣の身体が力を失い、崩れ落ちる。
「ミレイユ!!」
俺は岩から身を剥がし、走った。
セラも、必死に駆け寄る。
倒れていたのは、人の姿に戻ったミレイユだった。
セラが震える手で呼吸を確かめる。
「……息、してる……」
胸が、確かに上下している。
セラはその場で泣き崩れ、ミレイユの名を呼び続けた。
――俺は、何と無力なのか。
戦う力を持たないミレイユが、捨て身で俺たちを助けてくれた。
生き残れたから良いというものではない。
あの力は、ミノタウロス――ヤンのように取り返しのつかない暴走を招くかもしれない。
ミレイユを解放するための旅で、俺は、守る側でなければならなかったはずなのに。




