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聖環  作者: 北寄 貝


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航路を開く - 3

語り:ミレイユ・カロ

 ケルピーが鵺に肉薄した、その瞬間だった。

 空を裂く音が走る。

 一本の矢が、一直線にケルピーへ向かって飛んでいく。

 次の瞬間、黒い影がひるがえった。

 矢は空を切り、ケルピーはそのまま波打ち際を駆け抜ける。


 ――速い。


 だが、それで終わりではなかった。

 二本目、三本目と、間を置かずに矢が放たれる。

 射たのはダリウスだ。

 狙いは仕留めることではない。

 ケルピーの注意を引きつけ、動きを縛るための牽制射撃。

 その間に、ダリウスはセラのもとへ走り込んだ。

 剣が閃く。

 セラの足首に絡みついていた海藻が、断ち切られた。

「……ありがとう。」

 セラは息を荒げながら言い、すぐに唇を噛む。

「刃物を持っていないのは……失敗だったわ。」

 ダリウスは短く頷き、すぐに周囲へ目を走らせた。

「船に、斧や刃物はないか!」

「ある! だが――。」

 漁師の一人が、悔しそうに叫ぶ。

「船に近づけねぇ!

 まだ係留が終わってねぇんだ!」

 セラが声を張り上げた。

「岩場は不利よ!

 海辺から離れましょう!」

 だが、もう一人の漁師が首を振る。

「無理だ!

 船を壊されたら、ここで詰みだ!」

 その言葉に、セラの表情が一瞬だけ曇った。

(逃げられない……)

 私の胸にも、同じ認識が落ちる。

「なら……早く決着をつけるしかないわね。」

 セラの声には、覚悟と諦めが入り混じっていた。


 その直後。


 すぐ目の前で、海藻が跳ね上がった。

「――足!」

 考えるより先に、声が口を突いて出た。

 漁師の足首に、濡れた海藻が巻きついている。

 ダリウスが即座に踏み込んだ。

 剣が振るわれ、海藻が断ち切られる。

 漁師はよろめきながら後退した。

 その背後から、さらに太い海藻が伸びる。

「ダリウス!」

 叫ぶ間もなく、それは彼の脚と胴に絡みついた。

 体勢を崩し、ダリウスは岩場に叩きつけられる。

「――ぐっ!」

 鈍い声が漏れた。

「離れろ! 来るぞ!」

 彼はそう叫びながら、必死に体を起こそうとする。

 その視線の先――

 ケルピーが、すぐそこまで迫っていた。

 黒い巨体が身を起こし、前脚を大きく振り上げる。

 その影が、真上から落ちてくる。

 ダリウスは身をよじり、間一髪でその直撃を躱した。

 次の瞬間。

 前脚が岩場を叩きつけ、鈍い音とともに岩が砕け散る。

 もう一度、前脚が振り上げられた。


 ――横合いから、鵺が全身で体当たりした。


 ケルピーの体が、わずかに弾き飛ばされる。

 だが、反射的に振るわれた後脚が鵺を捉えた。

 黒い体が宙を舞い、岩場に叩きつけられる。

「きゃあっ!」

 セラの鋭い悲鳴。

「――ッ、グルル……!」

 鵺の喉から、押し殺したような唸り声が漏れた。


 視線を戻すと、ダリウスは海へ引きずられかけていた。

 海藻が彼の体を引き、彼は岩にしがみついて、必死に耐えている。

 セラはその場にうずくまり、鵺も四肢に力が入らない様子で身を伏せていた。


 ――まずい。


 はっきりと、そう思った。

 これは、かなり拙い状況だ。

 少なくとも、私の目には――

 取り返しがつかない。


 だからこそ、私は――


 岩にしがみつくダリウスと、動けずにいるセラと鵺から視線を外し、漁師たちのほうを見た。

「お二人は、ここから離れて!」

 思っていたより、声ははっきり出た。

「船を動かせるのは、あなたたちだけです。

 ここから離れて、安全なところへ逃げてください。」

 漁師たちが、驚いたようにこちらを見る。

 だが、今は説明している余裕はなかった。


(迷っている時間はない)


 この場に残るべき人間と、離れるべき人間は、もうはっきりしている。

 私は一歩、前に出た。

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