航路を開く - 2
語り:ミレイユ・カロ
予定通り、漁村に到着してから二日後の朝。
空が白み始めたころ、漁船は静かに出港した。
船を操る漁師は二人。
どちらも口数が多いとは言えず、
不満と不安を隠そうともしない表情をしている。
「……本当に、やるんだな」
「近づきたくなかったんだよ。あそこは……」
小声ではあるが、はっきりと聞こえた。
(……この感じ、前にもあったわね)
私は、アストリア港での一件を思い出していた。
乗船を拒まれ、視線を避けられ、理由を問えば魔女やら疫病神だのと――
あのときの、どうしようもない居心地の悪さ。
思わず、げんなりとため息が出そうになる。
セラとダリウスは、何も聞こえていないふりをしていた。
あるいは、本当に気にしていないのかもしれない。
少なくとも、二人の背筋はぶれていなかった。
漁船は、私が想像していたよりもずっと簡素だった。
船体は小さく、喫水は浅い。
帆は補助程度で、主に櫂と風を使って進む造りだ。
その代わり、岩礁の多い沿岸でも小回りが利き、浅瀬を縫うように航行できる。
船底も厚く、多少の接触なら耐えられるようになっている。
なるほど、と内心で頷く。
この船は「遠くへ行くため」のものではなく、「危険を避けながら戻ってくるため」の船なのだ。
漁師の一人が、岩礁を指さしながら言った。
「この辺りは、潮の流れが複雑だ。
沖へ出るより、こうして岩に沿って進んだ方が安全なんだよ」
船は、白い波が砕ける岩場すれすれを、慎重に、しかし慣れた様子で進んでいく。
やがて、日が傾き始めたころ。
前方に、小さな島影が見えてきた。
「あれだ」
漁師の声に、全員がそちらを見る。
島の中央には、簡素な小屋が一つ。
遠目にも、長く使われていないことが分かる。
(……あそこが、中継点)
船が岸に近づき、私たちは上陸した。
砂浜ではなく、波に濡れた岩場で、足を置く場所を選ばなければならなかった。
漁師たちは船を固定するため、手早く作業を始める。
そのときだった。
「――うわああっ!」
鋭い悲鳴。
振り返ると、一人の漁師の足に、濡れた海藻のようなものが絡みついていた。
それは、海の中から伸びている。
「引っ張られてるぞ!」
「離せ! くそっ!」
もう一人の漁師が必死に岸へ引き戻そうとするが、力が拮抗している。
ダリウスが駆け寄った。
迷いなく剣を抜き、海から伸びる海藻を断ち切る。
その断面が、不自然に蠢くのが見えた。
海藻は切断され、漁師は勢い余って尻もちをついた。
「助かった……」
二人とも、青ざめた顔で荒い息をついている。
「早く、海辺から離れて!」
セラが叫んだ、その視線の先――
いた。
濡れた黒馬。
水を滴らせた毛並みが、鈍く光っている。
あれがケルピーだと、すぐに理解できた。
ケルピーが高くいななくと同時に、海がざわりと波立った。
次の瞬間。
無数の海藻が、まるで意思を持つかのように、私たち全員に向かって伸びてきた。
「来るぞ!」
ダリウスは剣を振るい、迫る海藻を次々と断ち切る。
セラは迷いなく鵺を呼び出した。
青黒い影が現れ、鉤爪で海藻を切り裂いていく。
私は――
「お二人とも、こっちに!
離れないで、固まっていましょう!」
戦えない者は、まとまっていた方がいい。
それは、これまで何度も目にしてきた教訓だった。
漁師たちを促しながら、場違いな考えが、ふと頭をよぎる。
(……人を騙して水に引き込む、って聞いていたけど……
これは、強制的に引きずり込むつもりみたい)
考えを終える前に、海の中から、さらに異様な光景が現れた。
蛇が鎌首をもたげるように、多数の海藻が直立する。
セラが叫んだ。
「ダリウス!
ケルピーは私と鵺でやる!
海藻をお願い!」
「了解した!」
再び、ケルピーがいななく。
海藻が、一斉に襲いかかる。
鵺が地を蹴り、ケルピーへ向かって走り出した。
その背中が、ほんの一瞬、遠ざかる。
――その瞬間。
「きゃっ!」
セラの悲鳴。
見ると、いつの間にかセラの足首に海藻が巻き付いている。
鵺が、即座に踵を返した。
だが。
その背後から――
ケルピーが一直線に突進してくる。
濡れた蹄が地面を叩き、一直線に、鵺とセラへ――
(後ろ――! 危ない!)
声にする前に、息を呑んだ。




