風の目覚め - 1
語り:ダリウス・エルネスト
林が近づくにつれ、空気が変わった。
音が薄くなり、鳥の声が途絶える。
馬の鼻息と車輪の軋む音だけが耳に残った。
「この先は林道です。視界が悪くなります。」
俺は手綱を引き、馬を止めた。
護衛は十名ほど。小隊としては最小限の規模だ。
二人の兵に合図する。
「マルク、ジャン。前方を偵察しろ。五百歩も行かなくていい。」
「了解、隊長。」
二人が木々の影に消えた。
残った者たちが息を詰める。
この静けさは、戦闘の前触れに似ていた。
馬車の窓が開き、セラとミレイユが顔を出す。
セラの表情は穏やかだが、目が周囲を見ていた。
「危険ですか?」
「まだ分かりません。ただ、警戒を。」
返事をした直後、林の奥から叫び声が響いた。
「――敵だッ!」
空気が裂けた。
無数の矢が枝葉をかすめ、雨のように降り注ぐ。
木の枝が折れ、馬が嘶き、車輪が弾かれる音。
兵の一人が胸を射抜かれて倒れた。
「退け! 林を出る!」
俺は叫び、盾を前に押し出した。
兵たちは反射的に動き、馬車を守りながら後退する。
林を抜けるまでのわずかな距離が、やけに長く感じた。
矢が背後の木々に突き刺さる音が、足音を追ってくる。
なんとか開けた街道まで下がり、ようやく矢の雨が途絶えた。
「防陣を立てろ! 負傷者を下げろ!」
俺は声を張り上げ、部隊を再編した。
呼吸を整えながら周囲を見渡す。
部隊は十名のうち二人が負傷、もう一人は動かない。
敵の数は矢の数からしておそらく倍以上――少なくともこちらを包囲できるほどだ。
矢の射程外に出た今が、次の一手を考える時間だった。
だが、ほとんどの者が息を荒げ、緊張で声を失っている。
敵も様子をうかがっているのか、林の奥は静まり返っていた。
俺は矢筒を確かめ、次に何をするかを整理していた。
そのとき、馬車の扉が音を立てて開いた。
セラが降りてきた。
マントの裾を払って立ち上がり、腰の革袋を確かめている。
中には、子供のこぶし程度の石がいくつか詰まっていた。
右手には革のスリング、左腕には小ぶりの盾。
信じがたい光景だった。
「お待ちください。ここは危険です。」
俺は一歩踏み出し、声を強めた。
「どうか、馬車にお戻りを。私の役目は、あなたを無事にエリアスのもとへお送りすることです。」
セラは振り返らず、短く答えた。
「護衛の皆が危険です。」
「何としてでも我々が守ります。どうか、お下がりを。」
「あなたたちを無駄に死なせるわけにはいきません。」
言葉に詰まった。
それでも口を開いた。
「死んでも構いません。
護衛隊が命を賭してお守りします。
ですから――お願いします。」
セラがこちらを振り返った。
静かな目だった。
そこに恐れはなかった。
「私の命に犠牲はいらない。」
その声が風のように空気を震わせた。
兵たちの手が止まり、誰も動けなかった。
その瞬間、林の奥から枝を踏み割る音がした。
低い太鼓のような足音。
金属が擦れ、乾いた地面が震える。
敵が動き出した。
俺は弓を構え、矢羽根に指をかけた。
もう言葉を交わす時間はなかった。
枝葉の隙間から、影が一斉に迫ってきた。
それが、戦いの始まりを告げる音だった。




