航路を開く - 1
語り:ミレイユ・カロ
村を出発したのは、グリーブとの戦いから二日後の朝だった。
短い滞在だったはずなのに、振り返ると密度の濃い時間だったように思う。
血と祈りの夜、静かな食卓、そして疲れ切って眠った晩――
すべてが胸の奥に、重なり合って沈んでいる。
出立の準備は、ほとんどシメオンが一手に引き受けていた。
村長をはじめ、事情を知る村人たちも「恩返しだ」と言って、干し肉や乾パン、干し果物、替えの衣まで用意してくれた。
私たちは追われる身、ということにはなっていない。
表向きは「帝国の密命を受けた三人」という扱いだった。
村の人たちは、それ以上を詮索しなかった。
その距離感が、ありがたかった。
見送りのとき、シメオンは何度も頭を下げていた。
いつもはきびきびと動く人なのに、その背中はどこか名残惜しそうで、私の目にはそれが強く焼きついた。
(ダリウスのことを、本当に大切に思っているのね)
口には出さず、心の中でそう呟いた。
十分な物資のおかげで、旅は驚くほど順調に進んだ。
疲労は残っていたが、誰も体調を崩すことはなく、予定通り二日の夕方、小さな入り江に面した漁村へと辿り着いた。
入り江には、小型の漁船が十隻ほど停泊している。
いずれも沿岸用で、荒波や長距離航行には向かなそうだった。
(……ここが、次の分かれ道)
そう思うと、自然と背筋が伸びる。
近くにいた村の女性に声をかけると、彼女は気さくに笑って村長の家まで案内してくれた。
家は漁村の中では少し大きく、よく手入れが行き届いている。
戸を叩くと、すぐに中から柔らかな声が返ってきた。
「はい、どなたかな。」
現れた村長は、穏やかな顔立ちの中年の男性だった。
事情を話すと、私たちを家の中へ招き入れてくれる。
ダリウスが、この村の村長から預かってきた手紙を差し出した。
「あなたの兄上からのものです。」
村長は手紙に目を通し――
そして、困ったように深く息を吐いた。
「……参ったな」
その様子に、ダリウスがすぐ問いかける。
「何か問題でも?」
村長は一度周囲を気にするように視線を巡らせ、声を落として言った。
「内緒の話だがね。
フランカ帝国からノルドハイム連邦への密航の手助けは、これまでにも何度か請け負ってきた。」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「通常なら、二日の航程だ。
岩礁地帯に沿って進み、途中の小島で一泊する。
あそこは漁師たちが休憩所として使ってきた場所でね。」
だが、と村長は言葉を切った。
「先日、四人で漁に出た者たちがいた。
例の小島で休んでいたところを魔物に襲われ……
戻ってきたのは、一人だけだった。」
村長は視線を落とす。
「中継点が使えないだけじゃない。
航路そのものの安全が怪しい。
誰の頼みであっても、今は船を出せないんだ。」
部屋の空気が、はっきりと重くなった。
セラが、一歩前に出た。
「魔物……ですか?」
「生き残った一人の話では……ケルピーだそうだ。」
その名を聞いた瞬間、私は記憶を手繰り寄せた。
ケルピー――水辺に棲む魔物。
馬に似た姿をとることが多く、濡れた毛皮と黒光りする体を持つという。
人を誘うように静かに近づき、背に乗せた者を、そのまま水底へ引きずり込む――
書物で読んだ、嫌な想像を掻き立てる存在だ。
(漁師が相手では、太刀打ちできない……)
セラは少しも躊躇わず、村長をまっすぐ見据えた。
「もし、私たちがそのケルピーを退治できるとしたら。
船を出してもらえますか?」
村長は目を丸くした。
「冗談だろう……?」
だが、セラの表情は冗談を許さなかった。
「どうしても、ノルドハイムへ行かなくてはならないの。
あなたのお兄さんにも、助けてもらった。
このまま引き返すわけにはいかない。」
村長は黙り込み、村の事情と、兄からの頼み、そして目の前の少女の覚悟を、静かに秤にかけているようだった。
やがて、大きく息を吐く。
「……分かった。
船を一艘、漁師を二人、工面しよう。
危険だが……覚悟の上だな。」
「ありがとうございます。」
セラはそう言って、深く頭を下げた。
話が一段落したところで、私は以前から気になっていたことを口にした。
「この漁村から、アルビオンへ直接渡ることは……?」
村長は申し訳なさそうに首を振る。
「この村の船は小さすぎる。
アルビオンまでの航程には耐えられんよ。」
「……そうですか。」
思わず、肩が落ちる。
淡い可能性を探っていただけに、胸に小さな空白ができた。
すると、ダリウスが静かに補足する。
「ここはアストリア港より離れているし、風向きも逆でね。
アルビオンに向かう方が、ずっと大変なんだ。」
現実的で、けれど突き放さない声音だった。
出航は早朝になるという。
準備のため、船を出すのは明後日の朝。
それまでは村長宅に滞在するといいと勧められ、セラが代表して礼を述べた。
こうして、次に越えるべき壁がはっきりと姿を現した。
(ケルピー……)
海を渡るために私たちはまず、この海の番人と向き合わなければならない。。
魔物との戦いが一筋縄ではいかないのは、もう十分に理解していた。
夜の漁村は静かで、波の音だけが、途切れることなく岸を打っていた。




